宗教に対するよくある意見や疑問とそれへの応答

いきなり面と向かって宗教批判をしてくる人は見たことがないのですが、私は宗教について勉強をしているので、「宗教について何か疑問とかありますか?」みたいに問いかけると、けっこう率直に疑問をぶつけてくれる人がいて、個人的には嬉しいです。そこで、よくある宗教への意見や疑問、批判を挙げて、それへの応答を簡単ではありますが、試みてみます。私の応答に対し、「それは違うのでは?」と感じることがあればコメント欄などでさらに反論していただけると嬉しいです。

「神って本当にいるの?」

キリスト教やイスラームなどの一神教の神の話をすると、結論的にはわからないということになっています。

神の存在証明にはいろいろなものがあるように思えますが、実は類型としては3つしかありません。そして、そのいずれもが誤っていることを哲学者のカントが証明しました。従って、神が存在することを証明することはできません。

しかし、神の存在証明ができないことが直ちに神が存在しないことを意味するわけではありませんので、神が存在しないと主張したいなら、そのことの証明が必要になります。そこで、いくつかの偉い人(フォイエルバッハやフロイトなどが有名です)がそれを試みたのですが、今のところ成功していません。

神が存在することの証明も、神が存在しないことの証明も未だないので、神が存在するかどうかはわからないということになります。ちなみに、わからない以上、神が存在するという主張は信仰ですが、神は存在しないという主張も信仰です。立場は違っても、実は信仰という点で共通しているのは面白いですね。

「教典は人が作ったものなのに、それに感動しているのは変だと思う」

実際には聖書とか何かしらの仏典とかを指して批判する人が多い印象ですが、ここではひっくるめて「教典」としました。

変だと思う、とのことなのですが、人が作ったものに感動するのは誰でも経験のあることだと思います。小説やマンガは人が作ったものですが、作品に触れて感動したことのある人はいるでしょうし、何なら、感動しなかったら人間じゃないみたいな扱いを受けることもあるのではないでしょうか。

また、単に感動して終わりではなく、たとえば医療系の作品に触れて、医者や看護師などの職業を選択した人もいます。人が作ったものが実際に人生に影響を与えるということはそんなに珍しいことではありません。

そのように考えると、教典を特別視する必要はないように思えてきます。

「宗教は戦争を起こしたりするから危険だと思う」

宗教は危険だという意見はまったくその通りだと私も思います。ただ、考えなければならないのは、宗教はどの程度危険なのかという点でしょう。宗教は、人間が危険であるのと同程度に危険です。宗教も人間の営みだからです。その意味では、宗教は、人間が平和的であるのと同程度に平和的だとも言えます。

ところで、宗教は戦争を起こすという点については必ずしも正しくありません。歴史的にも、宗教を直接の原因とする戦争はゼロではないものの少ないです。宗教が関連しているように見える戦争であっても、実際の原因は、お金がない、食べ物がない、生活ができない、といったものが大半だと思われます。そういった具体的な問題に、宗教は結びつきやすいようです。

しかしながら、繰り返しになりますが、宗教は平和的でもあり、問題に対して平和的な解決を図る場合もあります。宗教には二面性があるのです。この二面性をどう考えるかはなかなか難しいところですね。

「一神教は排他的で暴力的だが多神教は寛容で平和的だと思う」

これも戦争に関連してよくある意見です。一神教関連の戦争が多神教よりも多いのは統計的にも間違いありません。しかし、これを理由に多神教の方が平和的だと言うのはちょっと無理があります。というのも、多神教が関係する争いも一神教ほどではないものの、よくあるからです。

それから、多神教が寛容だという意見についても微妙なところがあって、たとえば日本の場合は条件付きの寛容と言えるかもしれません。別にいろいろな宗教があってもいいと言いつつも、何か影響がありそうなら強い反発が起きます。

あるいは、寛容ではなく無関心であるとも言えるでしょう。寛容と無関心はまったく異なるものですが、表面的には同じに見えます。伊勢神宮でイスラームの礼拝所の設置計画が出て撤回されるということがありましたが、イスラームに対して、また神社に対しても無関心だからこそ計画できたと批判する宗教者もいたようです。

「なんで宗教みたいな非科学的なものがあるのか理解できない」

いろいろな答え方ができるかなとは思うのですが、一番大きいところでは科学だけで物事を説明できるわけではないからです。

たとえば、自分や大切な人に雷が落ちたとしましょう。雷はなぜ発生するのか、雷が落ちるのはどうしてなのかは科学的に説明できます。しかし、雷が自分や大切な人に落ちた理由については科学では説明することはできず、強いて言うならば、偶然である、ということになります。多くの人は偶然落ちたでは納得できないでしょう。どうして自分に、どうして大切なあの人に、と苦悩するものです。

このように、自分や自分に関連することについて宗教は説明をすることができます。たとえば、罰がくだった、などのようにです。もちろん、宗教による説明が正しいとは限りません。ですが、このような説明を求めるのが人間なのだ、と言えるのではないでしょうか。

「宗教なんて信じてないで現実を見たほうがいいと思う」

これはちょっと説明が難しくなるのですが、現実の対概念として虚構があります。そして、現実と虚構は区別することができません。なので、現実だけを見る、というのは無理がある、という答えになるかな、と思います。

虚構というとウソのような悪いイメージが一般にはありますが、実際の意味としては、ないものをあるものと考えることです。例えば、虚構の代表的なものに法律があります。法律は形のあるものとして存在していませんが、みんな法律をあるものとして、法律に従って生きています。法律は虚構ですが、みんな法律に従って生きている、つまり現実に作用しているという意味で、法律は現実です。ここに明確な区別はありません。

そして、同じように、神や仏といったものも虚構です。そして、その神や仏を祀るところとしての神社やお寺といった宗教施設があったり、そこに出入りする人がいるなど、現実として作用しています。その意味で、神や仏といったものは現実です。

もっと身近な話をすると、日本の食べ物はわかりやすいでしょう。例えば、きつねうどんがあります。うどんの上に油揚げが乗せられたものですが、きつねが乗っているわけではありません。私達は無自覚のうちに自然とこのような認知をしているのです。

「宗教は精神的に弱い人がするものだと思う」

これは半分当たっているけど、半分間違っているという感じかなと思います。

たしかに精神的に弱い人が宗教にハマるというのはあります。しかし、他方で、滝に打たれて修行する人や、比叡山で行われる千日回峰行などを想像すると、精神的に強い人もいます。

これも先ほど指摘した宗教の二面性、両義性と言えるでしょう。宗教は人間の営みなので、弱い人も強い人もいるのが当然だと思います。

追記するかも

また何か面白いのがあったら追記するかもしれません。とりあえず、これくらいにしておこうと思います。

宗教文化士ってなに?どんな資格?

私は宗教文化士という資格を持っているのですが、自己紹介などをするときに大体「なにそれ?」みたいな反応をされます。というわけで、宗教文化士について紹介します。

宗教文化士とは

宗教文化教育推進センター(CERC)というところが資格を出しています。「宗教教育を推進するなんて、なんか怪しいところなんじゃないか?」と思われるかもしれませんが、このセンターは日本宗教学会と「宗教と社会」学会の2つの学術団体が関連していて、怪しいものではないです。

そして宗教文化士についてですが、こちらはセンターの説明がわかりやすいので、そのまま引用しようと思います。

日本や世界の宗教の歴史と現状について、専門の教員から学んで視野を広げ、宗教への理解を深めた人に対して与えられる資格です。主な宗教の歴史的展開や教え・実践法の特徴、文化と宗教の関わり、現代社会における宗教の役割や機能といったことについて、社会の中で活かせる知識を養っていることが求められます。

宗教文化士の特典

宗教文化士を取得すると、主に3つの特典を受けることができます。

宗教文化士の集い

宗教文化に関連するシンポジウムやワークショップが定期的に開かれており、これに参加することができます。たしか、年に2回やっていると思います。

内容についてですが、宗教学では有名な先生がやってくれることが多いため、かなり充実していると思います。もう少し回数が多ければ言うことないのですが、運営も大変でしょうから仕方がないですね。

コロナ以前は主に東京と大阪でしかやっていなかったのですが、コロナ以後はオンライン形式で行うことが増え、参加しやすくなりました。

宗教文化士の交流を目的としているので、懇親会的なものを行うときもあります。

メルマガ

年に4回メルマガが送られてきます。内容は、宗教関連のニュースに解説をつけたもの、運営委員会のコラム、宗教文化士が書いたレポートなどです。

個人的にはもう少し内容を充実させるか、回数を多くしてほしいと思っています。でも、運営さんも忙しいでしょうから仕方がないですね。

施設の割引

協定を結んでいるところがあって、そこの入館料が安くなったりします。

有効期限と上級宗教文化士

宗教文化士の資格有効期限は5年間です。有効期限が切れる半年くらい前に更新のお知らせが来て、更新をすることで有効期限のない上級宗教文化士の資格が得られます。上級になっても有効期限がないだけで、特典などは同じです。

更新の際にはレポートを3つほど書かなければなりませんが、そんなに難しいものではないので、出せば更新できる、とまで言ったら怒られそうですが、上級だからといってすごいわけではありません。

取得するには?

試験に合格することで取得することができます。しかし、受験資格として、大学(学部でも大学院でも可)で宗教関連の授業で16単位以上取得する必要があります(受験時は12単位以上取得していればOK)。大学で宗教系の講義がないなど、16単位取れない場合は、宗教文化教育推進センターが用意している講義を履修すれば受験できるようになります。あと、大学2年生以上であることや卒業後2年以内であることなどの条件もあるので、このあたりはセンターのホームページを見るのがいいと思います。

ところで、試験の難易度なのですが、私はかなり簡単だと思いました。受験対策もそんなに気合を入れてやらなければならないものではなく、「宗教学入門」的な名前の本を読んでいれば、そして大学の授業をきちんと聞いていれば、合格はできるでしょう。

しかし、合格率はだいたい60%くらいだそうです。宗教が嫌われがちな日本で宗教を勉強しようと考え、さらに大学で16単位以上も宗教の授業の受けている人たちの中で60%と考えると、もしかするとけっこう難しいのかもしれません。

ぶっちゃけ宗教文化士ってどう?

取得するメリットはあるのか?と聞かれたら、私は取ってよかったと思っています。一番の理由は、特典の一つである宗教文化士の集いに参加できることです。繰り返しになりますが、宗教学では有名な先生が担当してくださるので、毎回勉強になります。大学を卒業してからも定期的に宗教学を学ぶ機会が得られるという意味では、とても役立っています。

ただ、一般的に、資格を取得する動機として就職に役立つかどうかが見られると思うのですが、その点に関して言うならば、ほとんど意味はないでしょう。私も新卒で就活を経験しているのですが、その際に履歴書に宗教文化士と書いていたものの、「宗教文化士って何ですか?」と聞かれたらまだいい方で、ほとんど注目されませんでした。中には悪い意味で注目されたことも一度だけですがあって、「書かないほうが良かったのでは?」と言われたことがあります。私のアピールの仕方が良くなかったのかもしれませんが、あまり役には立たないかな、と思います。

まとめ

宗教文化士について紹介してみました。就職に役立つことはあまりない資格だとは思いますが、あとから振り返ったときに、大学でちゃんと宗教を勉強したんだなぁと思える資格です。宗教をちゃんと勉強したい人や、大学を卒業しても学びの機会がほしいという人にはかなりいい資格だと思います。興味のある方は受験してみてください。

終活の始めるべき最適なタイミングとは?老後を豊かに過ごすためのステップ

老後の生活を豊かに過ごすためには、終活を計画的に進めることが欠かせません。しかし、終活を始める最適な年齢は一体いつなのでしょうか?このブログ記事では、終活を始める年齢について考察し、計画的な老後を迎えるためのステップを紹介します。

若いころからの終活意識

終活を始めるのに適したタイミングは、実は若いころからスタートすることが望ましいと言えます。若いときから終活に意識を向け、家族や友人とコミュニケーションをとりながら自分の希望や価値観を整理することが重要です。終活は単なる手続きではなく、生涯設計の一部と考えるべきです。

30代からのスタート

終活を始めるのに最適な年齢は、多くの専門家が30代から40代の間と指摘しています。この年齢では、まだ健康であり、将来の計画を立てる余裕があります。具体的なステップとしては、以下のことを考えることができます。

  1. 遺言書の作成: どのように財産を分けるかや、遺言執行者を指定することができます。
  2. 保険の見直し: 生命保険や医療保険の加入状況を見直し、将来の医療費や生計を考えます。
  3. 貯蓄と投資: 老後資金を積み立てるために貯蓄や投資を始めましょう。

50代以降も遅くない

もちろん、30代や40代から始めることが理想的ではありますが、50代以降で終活を始めることも遅すぎるとは言えません。年齢に関係なく、今からでもできることがたくさんあります。

  1. 健康管理: 健康状態を確認し、医療の計画を立てましょう。介護保険の加入も検討しましょう。
  2. 住まいの整理: 不要な物を整理し、住環境を整えることで快適な老後を過ごせます。
  3. コミュニケーション: 家族や友人とのコミュニケーションを深め、希望や意向を共有しましょう。

終活はプロセス

終活は一度だけの作業ではありません。生活状況や価値観は変化するため、定期的に見直しを行うことが必要です。終活を進化するプロセスと捉え、新しい情報や法律の変更に対応しましょう。

まとめ

終活を始める最適なタイミングは、若いころから始めることが望ましいですが、遅くとも50代以降でも遅すぎることはありません。大切なのは、計画的に始め、生涯設計を見直す柔軟性を持つことです。終活は自分と家族の将来に向けた貴重なステップであり、計画的な老後を実現するために不可欠なプロセスです。今から終活を始め、安心と幸福を追求しましょう。老後を迎える準備は、自分自身と家族への最高のプレゼントと言えるでしょう。

宗教学を学べるオススメの大学

宗教学を学べるオススメの大学を、私の独断と偏見で紹介します。ちなみに、紹介している順番は思いついた順番です。

そもそも宗教学とは?

ここでは簡単な説明に留めたいと思います。一言で言ってしまえば、宗教とは何かを明らかにする学問です。信仰を前提とすることなく、客観的な立場から宗教を考察します。

宗教の学問とだけ聞くと信仰を深めるような印象を受けるかもしれませんが、むしろ逆で、神は人間が作った、みたいな考え方をしますから、けっこう冷たい学問です。

ちなみに、信仰を前提として宗教を考察する学問としては、神学や宗教哲学があり、宗教学とはまた異なります。

東京大学文学部人文学科宗教学宗教史学専修

宗教学と聞いたときに一番最初に思いつくのは東大だという人は少なくないと思います。

東大の宗教学は大体のことができます。特別何かに特化しているわけではないけど、できないことはない、という印象が強いです。ただ、しいて言うならば、新宗教系の研究がちょっと多いかな、という気もします。

とにかく宗教学をしたいという場合には、ハズレにはならないところでしょう。

北海道大学文学部哲学・文化学コース

北海道大学も宗教学について幅広く学べます。しかし、東大みたいに何でもありというよりかは、若干ですけど、仏教とかアジアに関する研究が多い印象を受けます。

北大だとクラーク博士の印象が強いので、キリスト教に強いのかな、とか思わないでもないのですが、もちろんキリスト教も学べるものの、特化しているとかではなさそうです。

まあ、宗教学のことはだいたいはできそうなので、ここもハズレにはならないのではないでしょうか。

東北大学文学部広域文化学専攻宗教学

東北大学は理論的な研究はもちろんなのですが、フィールドワークにも重きを置いています。ここの研究室とはまた別になるのですが、実践宗教学というのもやっていて、こちらでは死生学とかスピリチュアルケアとか珍しいことをやっています。

宗教学も実践宗教学も仏教やアジア関連の研究が多いように思います。

本を読むだけではなく、現場にも行きたいという方にはいいところだと思います。逆に、理論的な研究だけをやりたいという場合にはちょっとクセのあるところなのかもしれません。

九州大学文学部比較宗教学

すみません、本当にこれは偏見なのですが、人類学っていう印象が強いです。ここもフィールドワークに重きを置いているように思います。

筑波大学宗教学コース

割りといろいろなことができるところだとは思いますが、仏教やインド哲学寄りな印象を受けます。あと人類学的な印象も受けます。

関西大学文学部比較宗教学専修

個人的に好きなところです。ここはかなり何でもありな印象を受けます。教員の専門分野も、仏教やイスラームなどさまざまで、このあたりに比較宗教学的な要素が感じられますね。

ここまで読んでいただいたらわかると思うのですが、宗教学は日本ではかなりマイナーで、旧帝大レベル国立大学でないと学べません。私立大学だとその大学が持つ建学の精神となる宗教に関することしか学べないことが多いのですが、関大はバックボーンが宗教と関係ないからかもしれませんけど、こういう面白い専攻が用意されています。

私立で宗教学をやるなら関大、とまで言ったら大げさかもしれませんが、けっこう有名ですし、大体のことはできますから、宗教学に興味のある人にとってはハズレではないと思います。

その他、宗教学ではないけど特色のあるところ

宗教学ではないのですが、面白いことができる大学も紹介したいと思います。

同志社大学神学部

神学と言えば普通はキリスト教神学のことを指しますが、同志社ではユダヤ教、キリスト教、イスラームの3つの一神教を学ぶことができます。この3つを一つの場所で学べる場所は実は世界的に見ても稀で、日本だからこそできるのかもしれません。

3つの宗教を比較しながら学ぶことができるので、宗教学ではありませんが、宗教学的な視点も得られるのかな、という気がします。

ちなみに、普通、神学部は牧師の推薦やクリスチャンであることが必要となるのですが、同志社はキリスト教の信仰がなくても普通に受験可能です。

京都大学文学部宗教学専修

京大の場合は、「宗教学」という名前が付いているものの、中身は宗教哲学で、宗教学とは異なります。かなり特殊な場所だと思います。ガチガチの宗教哲学を専攻したいという場合は、日本でなら京大一択になるかと思いますが、そうでないのならちょっと考えた方がいいかもしれません。ただ、宗教について幅広く学べることは学べます。

まとめ

有名な大学ばかりになってしまったのですが、本当に宗教学はマイナーで、学べる大学は少ないです。

ただ、宗教学とは異なりますが、宗教系の私立大学に関しては、その宗教に関する専攻を置いていることがあります(これもそんなに多くはないですけど)。有名なところだと、龍谷大学や駒澤大学には仏教学がありますし、国学院大学では神道を学べます。

また、国際関係の学部であれば宗教学の講座を少ないながらも何かしら置いているはずなので、そのあたりを利用するのもいいかもしれません。

純粋に宗教学を専攻するとなると数は限られますが、「宗教」を学べる大学と広く捉えると数は少し多くなるのかな、と思います。

日本人は無宗教?なぜ無宗教と言われる?

一般的に日本人は無宗教だと言われますが、本当にそうなのでしょうか。また、なぜ無宗教と言われるのでしょうか。この点について考えてみます。

実は宗教に熱心な日本人

日本で何かしらの宗教を信じているのは1〜2割ほどで、9割近くが無宗教なのだそうです。正確な統計情報はともかくとして、たしかにほとんどの人は無宗教として生活をしているように思えます。

他方で、日本人の大部分は、お正月には初詣で神社へ参拝し、昨年のお礼や新しい一年の安全などのお願い事をします。夏はお盆で都会に出ている人も地元に帰省し、お墓参りなどをして、また夏祭りを楽しむ人も多いでしょう。一年の終わりにはクリスマスがあり、カップルの微笑ましい様子が見られます。

大切な人が亡くなればお坊さんを呼んでお葬式を挙げ、結婚式は教会で挙げて神の前で永遠の愛を誓い、そして子供が生まれたら神社でお宮参りをします。

特別な日でなくても、毎朝占いで今日の運勢を確認したり、急な腹痛に襲われ神仏に祈りを捧げたり、あるいはアニメやマンガで超常的な能力を持った人物が戦っているのを見て楽しんだりしています。

以上のようなことを考えると、日本人は無宗教というよりも、むしろ宗教に熱心に取り組んでいるように思えます。

もしかすると、日本人は宗教的なことをしているかもしれないけどイスラムのような宗教を信じている人よりかはそこまで熱心ではないという反論もあるでしょう。たしかに、イスラムではカーバ神殿で黒い箱のようなものの周りをぐるぐると多くの人が回るのが有名で、その写真や映像を見たことがある人も多いと思います。統計では1年間に約200万人から300万人がカーバ神殿にやってくるそうで、たしかにすごい数です。

ところで、日本にカーバ神殿はありませんが、宗教施設に行くという意味では神社への参拝は近いでしょう。千本鳥居で有名な京都の稲荷伏見大社では三が日だけで200万人から300万人が訪れます。カーバ神殿では1年で200万人から300万人なのに対して、伏見稲荷大社ではたったの3日間で同じだけの人が集まるのです。さらに言うと、神社は伏見稲荷大社以外にも数多くあるわけですが、日本全国の神社に集まる人の数は三が日だけで7000万人から8000万人と言われており、年間になるともはや測定できません。

このように数字で見ると、日本人が宗教に熱心であることがよくわかるのではないでしょうか。

日本人が無宗教と言うのはなぜ?

これには明確な理由があります。いろいろな背景があり、遡ろうと思えばかなり遡れてしまうのですが、直接的な原因となったのは、明治政府が打ち立てた神社非宗教論です。

神社非宗教論というのは読んで字の如く、神社は宗教ではないという主張のことです。なぜ明治政府がこのような主張をしなければならなかったのかというと、当時力を持っていた西欧列強と対等になるためです。細かいことは省略しますが、ざっくり言うと、日本が西欧列強と肩を並べるためには信教の自由を認めなけれなりませんでした。信教の自由を認める、つまり、すべての宗教は等価値であると認めると、天皇制を中心とした国家統一ができなくなります。ですので、どの宗教も価値は同じだと言いつつも、神社の特殊性を守らなければなりませんでした。それを理論化したが神社非宗教論なのです。

神社は宗教ではなく日本の文化である。仏教でもキリスト教でも信仰するのは構わないが、日本人であるならば日本の文化である神社に行け、とそのように明治政府は主張しました。仏教でもキリスト教でも他の宗教でも信じるのは構わないので、対外的には信教の自由は守られているように見えます。しかし、対内的には、日本の文化を害さない限りにおいて他の宗教の信仰を認めるという形を取っていたので、実質的には神社が宗教の上位に置かれるという構図になってしまいました。

現在の日本では、言うまでもなく、神社非宗教論の立場を取ってはいません。神社の大部分が神社本庁という宗教法人に属していることからも明らかでしょう。しかし、神社非宗教論ではないにしても、この影響が現在にまで続いているのです。

日本の宗教は本当に雑多?

さて、ここまでの説明で、鋭い人はこう思われたかもしれません。たしかに神社が文化として認識され、宗教と呼ばれないことはわかった。でも、日本にはもう一つ、仏教がある。神社非宗教論では仏教まで説明できないのでは?

これを説明するためには日本の核となる宗教観に触れなければなりません。日本の宗教はしばしば雑多だと言われます。最初の方にも軽く触れましたが、子供が生まれたら神社に行くし、人が死んだら仏式で葬式をするし、結婚式は教会でキリスト教式で行うなど、様々な宗教で入り乱れているように見えます。しかし、実はそんな日本にも体系的な宗教観があるのです。それが、生と死の循環です。

人の一生を簡単に想像していただきたいのですが、生まれた直後にはお宮参りや七五三などの神社で行う行事が集中しており、年をとるについれて行事が少なくなり、定期的に祭りを行うようになります。そして死ぬと葬式があり、忌日法要、月忌法要と死んだ瞬間に仏教系の行事が集中して、徐々にその間隔が空いていきます。

つまり、生と死が循環しており、生まれたばかりの子供は死の世界に近いから多く行事を通して生の世界に慣れさせて、そして死者は生の世界に近いから多くの行事を通して死の世界に慣れさせる、という形を取っています。

この生と死の循環という考え方はあまり現代では聞かないのですが、地方に行くと残っているところもあります。また、想像しやすいものとしては、ジブリ作品のトトロを挙げることができるでしょう。サツキやメイにだけトトロやネコバスが見れて大人に見れないのは、トトロやネコバスが向こうの世界の住人であり、子供であるサツキやメイは向こうの世界に近く、大人は遠いからです。(ジブリ作品は日本の宗教観をよく表した優れた作品だと思います。特にもののけ姫はすごいです)

話を戻すと、もともと基盤に生と死の循環という考え方があるわけです。そして、最初は神道的に生と死を扱っていたのですが、死に対しては十分な儀式を持っていませんでした。そこで、仏教が日本に来たときに、仏教(とりわけ真言宗)の儀式を借りてきたのです。その意味では、日本では神社と仏教を信じているというよりも、神社と仏教の儀式を借りていると言った方が適切かもしれません。

ついでにキリスト教についても触れておきたいと思います。日本では結婚式をキリスト教式で行うことが少なくありません。そして、クリスマスやバレンタインが特に顕著でしょう。これらに共通する要素として恋愛を指摘することができます。これは私の想像なのですが、おそらくは、上記のような生と死の循環という伝統的な考え方が現代になって通用しなくなり、それを埋め合わせるように純愛、恋愛が出てきたのではないかと思っています(ちなみに恋愛は宗教学の研究対象になることがあります)。そして、その表現形式としてキリスト教の儀式を借りているのではないでしょうか。その意味では、クリスマスなどをやっているからといって、キリスト教を信じているわけではないだろうと思います。

まとめ

かなりざっくりとした説明なのでわかりにくいところも多いと思いますが、なんとか書いてみました。ぶっちゃけ、本一冊じゃ済まないくらいに説明が必要なテーマだと思うので、詳しい人が読んだら怒るんじゃないかとか思わないでもないのですけど、いろいろな背景があるんだなくらいに思っていただければ嬉しいです。

宗教を勉強したいのですがどうすればいいですか?

ありがたいことに、最近はさまざまな人と接する機会が多くあります。そして、自己紹介をするときに、「宗教を勉強していまして…」みたいなことを言うのですが、「私も宗教に興味があるのですけど、勉強の仕方がわからないんですよね」と返されることが少なくありません。実はこれ、なかなか難しい問題で、私も未だに答えを出せていないのですが、ちょっとここで考えをまとめてみます。

なぜ宗教を勉強するのは難しいのか

さまざまな要因を指摘することができると思いますが、主なものとして以下の3つがあるのではないかと考えています。

中間がない

日本では宗教は嫌われるものですが、その宗教に興味を持ち、しっかりと勉強したいと考える人は、たぶん知性が高いのだと思います。そして、そういう人がまず行くであろう場所が図書館や書店でしょう。しかし、そこに並んでいる本には中間がありません。

宗教者も自身の宗教に興味を持ってもらいたいので、まったく宗教を知らない人でもとっつきやすいような本(「ゆる〜く生きる」的な感じのもの)を多く出しているのですが、それらは本当に簡単な内容で、その宗教がどういう思想を持っているかといったことはあまり詳細には語られない傾向にあります。そういう本が悪いわけではないのですが、ちゃんと勉強したい人にとっては物足りない内容になっていることが少なくありません。

それで、もうちょっと詳しく書かれた本を読みたいと思って探してみると、今度は大学教授のような偉い人が書いた大学レベルの専門書しかないことに気付かされます。これから宗教を勉強したいと思っている初心者なのに、そんな専門書を読めるわけがありません。

宗教の本には、そもそも興味がない人でもとっつきやすいレベルの易しいものと、大学レベルのそもそもある程度の知識を持っている人でないと読めないものしかないのです。ちょうどいいレベルの本がありません。

学ぶ対象や学ぶ目的が曖昧になっている

宗教を学ぶと言っても、宗教にはいろいろなものがありますし、宗教の何を理解したいのかによって学び方が変わってきます。

例えば、宗教一般(これが何を意味するのかはともかくとして)を学びたいのか、それとも仏教やキリスト教といった個別の宗教を学びたいのかをまずはっきりさせておく必要があるように思えます。

また、仮に仏教を勉強したいという場合でも、釈迦がいた時代の原始仏教なのか、それとも後の時代の大乗仏教なのかでも大きく変わってきます。それに、大乗仏教だとしても、日本と中国では違いがありますし、日本仏教だとしても浄土系と禅ではまた違います。

さらに言うと、信仰の有無も問題になってきます。何からの信仰を持っていてその信仰を深めるために学ぶのか、それとも信仰なしに宗教を客観的に知りたいのかで勉強の仕方が大きく変わります。学問的に言えば、神学的なアプローチをとるのか宗教史的なアプローチをとるのかの違いでしょうか。

ついでに言うと、宗教に関心を持ったきっかけによっては、宗教そのものを勉強するよりも、哲学や心理学、社会学といったものを勉強している方が良かったりもします。

以上のようなことを、これから宗教を勉強したいと思っている人が考慮できるわけもなく、結局、勉強を始めても迷子になってしまう、よくわからない、ということになるのではないかと思います。

学びたい対象である宗教をそもそもあまりイメージできない

個人的にこれが一番大きいのではないかと思っているのですが、でもうまく言語化できなくてうまく伝えられているか不安なのですけど、どうでしょうか。

何を勉強するにしても、最初に勉強する対象へのイメージが漠然とあると思います。経済でも法律でも医学でも心理学でも何でも良いんですけど、なんとなくイメージがあると思います。そのイメージが合っているか間違っているかは別として、イメージはできると思うのです。

でも、宗教を学ぶとなった場合、何を学ぼうとしているのかがよくわからなくなって来ることがあります。たぶんそれは、日本の教育で、宗教を宗教という名前で勉強してきていないからなのだろうと私は勝手に思っています。

どうやって勉強すればいいのか

「宗教を勉強するのは難しいというのはわかった、それで結局のところ、どうやって勉強すればいいんだ?」と聞かれたら、うーん、なかなかこれといった答えを出すのが難しいのですけども、しいて言うならば、大学に行くのがいいのではないかなと思います。

宗教に興味を持たれる方の多くは年配の方である印象を持っているのですが、宗教系の学問領域の大学院なら、定年退職後に入学される方も珍しくなく、全然アリな選択肢だと思います。いきなり大学院でやっていけるわけないだろ、という場合は学部に入学するのもいいと思うんですけども、正規の学生ではなく、科目履修生制度などを利用して、興味のある科目だけを選択するのもいいと思います。

ところで、なぜ大学なのかというと、まともに勉強できる場が大学しかないように私には思えるからです。本を読んで独学できるならそれが一番いいと思うのですが、先ほども書いたように、中間の本があまりありません。そして、近くの図書館や本屋に宗教系の本があるならまだいい方で、そもそも宗教系の本を置いていないところがほとんどではないでしょうか。

他にも、お寺や教会などの宗教施設に行くのもいいと思うのですが、あくまでも信仰の場であって、勉強の場ではありません。もちろんしっかりと勉強させてくれるところはあるのですが、全部が全部そうというわけではありませんし、勉強できるとしても、その組織の信仰を前提にしていることが多いと思われます。それが自分に合っているならいいのですが、学ぶ対象や学ぶ目的を自分でも把握できていない場合には止めておいたほうがいい気がします。

大学なら、教えてくれる人は宗教の研究者、専門家ですし、わからないことや本に載っていないことは先生に直接質問できますし、宗教系の本もある程度の数はあるはずです。大学に行っても結局は自分で本を読むことになるのですけど、それでも、大学に本があるということや、どの本を読めば良いのかを先生から教えてもらえること、そして繰り返しになりますけど、わからないことは先生に聞けることは大きな利点となるはずです。

まとめ

なんかあまりまとまりのない記事になってしまいました。宗教を勉強するのは難しいですね…。

法務局の自筆証書遺言書保管制度の注意点

自筆証書遺言書の多くは遺言者や相続人となる人が保管するのですが、実は法務局で保管することもできます。この記事では、法務局での自筆証書遺言書保管制度を利用する際に、よくある失敗や注意点などを紹介します。

申請のハードルは意外と高い

申請に必要なものや守らなければならないルールはいくつかあるのですが、その中でも特に重要なことが2点あります。この2点はクリアできなければ申請を諦めなければなりません。

1つ目は、遺言者本人が法務局に出頭しなければならないことです。本人に代わって家族が代理人として法務局に行って申請をするということはできません。弁護士などの有資格者であったとしても、本人が必ず法務局に行かなければ申請できないのです。そのため、病気などで寝たきりになってしまっている場合などには利用できません。

2つ目は、顔写真付きの身分証明書が必要になることです。申請者の大部分は高齢者なのですが、高齢者の場合、マイナンバーカードや運転免許証、パスポートなどを持っていないことが意外と珍しくありません。マイナンバーカードは難しそうで申請していない、申請したけど情報漏洩が怖くて返納した、運転も怖くて免許証は自主返納、海外に行く予定はもうないからパスポートもない、ということが案外多いです。保険証など顔写真がないものは認められていないので、気をつけてください。

民法と保管制度の2つのルールを守ろう

保管制度を利用しない自筆証書遺言書の場合は、民法968条を守れば有効です。もう少し具体的に言うと、遺言者がその全文、日付及び氏名を自書し、押印することです。ちなみに、財産目録については、パソコンを利用したり、通帳のコピーなどを添付することもできますが、目録のすべてのページに署名押印が必要です。また、修正する場合には、修正箇所を指示して、修正した旨を書いて署名し、修正した箇所に押印することが必要です。

そして、保管制度を利用する場合は、上記の民法を守った上で、さらに保管制度の様式を守る必要があります。

  1. A4サイズであること
  2. 余白を確保すること
  3. 片面のみに記載すること
  4. 各ページにページ番号を記載すること
  5. 複数ページある場合でもホチキスなどでとじないこと

順番に解説します。

1つ目のA4サイズであることについてですが、実はA4より小さいサイズでも構いません。というのは、A4用紙に貼り付ければいいからです。少し見栄えは悪くなりますが、それでも法務局は受け付けてくれます。しかし、逆に、A4を超えるサイズの場合はどうしようもないので、受け付けてもらえず、書き直すことになります。

2つ目の余白を確保することについてです。5つのルールのうち、最も多い失敗が、余白を確保していないことです。余白にも細かい決まりがあり、上部5mm以上、下部10mm以上、左20mm以上、右5mm以上が必要とされています。なぜ余白が必要かというと、スキャンしてデータでも保管するからです。そして、スキャンする際に、端が切れてしまう場合があるので、それを防ぐために余白を確保しているようです。

3つ目の片面のみに記載するというのはそのままで、裏表両面に記載するのは認められていません。

4つ目のページ数についてです。書き方は「1/3」などのように書きます。仮に1枚しかない場合でも「1/1」のように書かなければなりません。ちなみに、ページ数は本文には当たらないので、自筆でなくても大丈夫です。このページ数は余白の次に多いミスで、書き忘れがよくあります。単に書いていない場合は書き足せばいいのでまだいいのですが、余白にページ数を書いてしまった場合は書き直す必要があります。余白には何も書いてはいけません。

5つ目もそのままで、ホッチキスやクリップでとめてはいけません。

却下事由でなければ受け付けてもらえる

上で紹介した民法と保管制度のルールを守りさえすれば、基本的には受け付けてもらえます。これは一見、うるさいことを言われないので良いように思えるのですが、受け付けてもらえたからといって遺言書として望ましい状態にあるということを意味するわけではないことに注意が必要でしょう。

たとえば、一般的に重要書類を書く際にはボールペンなど消えないペンを使うことが多く、常識とさえなっています。しかし、民法にも保管制度のルールにも「消えないボールペンを使用すること」とは書かれていないので、鉛筆や消えるペンを使用しても受け付けてもらえます。遺言書は長期間保管するものですから、鉛筆や消えるペンは使用しない方がよいでしょう。

また、法務局は遺言書の内容については見ていません。形式だけを見ています。なので、この内容はまずいのでは?と思ってしまうようなものであったとしても、受け付けられます。受け付けてもらえたからといって、法務局に内容が認められたというわけではありません。可能であれば、弁護士や司法書士、行政書士に内容を確認してもらうのがよいでしょう。

白黒でコピーやスキャンすることを念頭に置こう

法務局での保管制度では、自筆証書遺言書を白黒でコピーしたりスキャンしたりします。そのため、遺言者を書く際には、そのことを意識しておくとトラブルが少なくなります。

よくあるのが、模様や柄の入った用紙を使用している場合、その上に文字を書いていると、白黒でコピーした際に文字が重なって読み取れなくなるのです。おそらく、模様や柄が入っていても却下事由に該当しなければ受け付けてくれるとは思いますが、あまりやらない方がいいでしょう。また、色付きの用紙を使用した場合も文字が読み取りにくくなるので、真っ白の紙を使うのがオススメです。

そして、修正する場合も注意です。一般的に、修正する場合は、間違えた箇所に二重線を引いて、その上に押印します。しかし、文字の上に押印すると、コピーした場合に、文字が読み取りにくくなります。そのため、押印は文字と重ならないギリギリのところにするのがよいでしょう。

まとめ

よくあるミスや誤解について、簡単ではありますが紹介しました。この記事だけを読むと、法務局での保管制度はあまりよくないもののように思えるかもしれませんが、費用が3,900円とかなり安いこと、保管制度を利用しない場合の自筆証書遺言書に必要な家庭裁判所の検認が不要となること、遺言者が死亡した場合の通知制度が設けられていることなど、メリットも多くあります。有効活用してみてください。

なぜ宗教を信じるのか―私がクリスチャンになった理由―

現代では宗教は馬鹿らしいものであり、宗教を信じている人はどこかおかしいのではないか、と考えられることが多いのではないかと思います。私も以前はそう思っていました。しかし、今ではキリスト教という宗教を信じています。宗教と一言で言っても仏教や神道、キリスト教、イスラームなど様々なものがありますが、私は、信じる理由は実は同じなのではないかと思っています。そこで、私がキリスト教を信じてクリスチャンになった理由を通して、なぜ現代において宗教を信じる人がいるのかを考えてみます。私が宗教を信じる人々を代表するわけではありませんが、宗教について考えるきっかけになれば嬉しいです。ブログは初めてですので、自己紹介も兼ねてこの記事を書いてみます。

クリスチャンになった直接的なきっかけ

いろいろな背景があるのですが、それは後ほど書くこととして、私がクリスチャンになった直接的なきっかけとなったのは、NHKこころの時代で基督教独立学園高校前校長の安積先生のお話を聞いたことです。

放送はかなり前のことですので、正確に覚えていないところもあるのですけど、3つの課題についてお話されていました。3つの課題とは以下のようなものです。

  1. 自分が恐れるものを可能な限り紙に書き出してみる
  2. 書き出したものの中から、これはどうしようもないというものを3つ選ぶ
  3. その3つを克服するために、今の自分に不足しているもの、必要なものを考える

1と2については、私は日頃から考えていたことだったので、すぐに答えることができました。1については書きませんが、2については、私の場合は、死、災害、人でした。この中でもとりわけ死が怖かったです。

そして、3についても実は答えを持っていました。それが芸術です。芸術家は自身が抱える苦悩と向き合い、そして作品を通して苦悩と真剣に格闘します。芸術と出会う前の私はただ苦悩することしかできなかったのですが、苦悩と格闘できるということ、そして真剣に格闘している人がいるという事実がとても嬉しかったのです。しかし、安積先生の話には続きがあり、それを聞いて芸術とは答えられなくなりました。

安積先生は、人間は「中途半端なところ」に留まると言います。自分が抱える苦悩と向き合うとつらい。そして、そのつらさには終わりがないように思える。だから徹底的に苦悩と向き合って、突き抜けてどん底まで行ってみることをせずに、途中で向き合うことをやめて「中途半端なところ」に留まってしまうのです。

これを聞いたとき、私は、漫画みたいな表現ですが、ぎくりとしました。というのも、私自身思い当たるところがあったからです。つまり、私は芸術を通して死と向き合っていたのではなく、芸術に逃げていたにすぎないということです。芸術は私にとって、まさに「中途半端なところ」でした。

こうなると、芸術を抜きにして、再び死と向き合わなければなりません。そのとき、自分にはどうすることもできないことに気づかされました。同時に、神に頼っている自分にも気づきました。これは信仰と言わざるを得ない。そして受洗(クリスチャンになるための儀式)しようと思ったのです。

つまり、なぜ宗教を信じるのかというと、自己の有限性の自覚です。自分には限界があるのだということを真に理解すると、「超越者」とでも言うべきもの、それが仏様なのか神様なのかそれはわかりませんが、とにかくそういうものに頼るようになるのだと私は思います。

なぜキリスト教だったのか

自己の有限性を自覚したとき、キリスト教の神様に、イエス・キリストに、私は頼っていました。ではなぜキリスト教だったのでしょうか。

安積先生の話に戻ると、「中途半端なところ」を突き抜けて、本当にどん底にまで行ったとき、先生は「光」が見えると仰っていました。私の場合はこの「光」がキリスト教だったのですけども、仏教やイスラームや神道などである可能性もあったでしょうし、何なら宗教である必要もなくて、芸術に再び目覚めるといったこともあり得たと思います。なぜ私の場合はキリスト教だったのか、私の生い立ちに触れながら考えてみます。

先ほど私は死が怖いと書きましたが、最初にそれを意識したのは中学生の頃でした。特に何かきっかけがあったわけではありませんが、たぶんそういうことを考える時期だったのでしょう。多くの人は小学生の高学年から中学生くらいにかけて、なぜ生きるのか、死とは何かといったことについて考えるものの、すぐに忘れて考えなくなるようです。しかし、私は考え続けてしまいました。誤解しないでいただきたいのですが、私は死にたかったわけではありません。そうではなくて、死が怖いのと、いずれは死ぬのがわかっているのに生まれたこと、これが納得できず、生に対して積極的になれていない状態でした。

そんな中学生の頃に、学校の正門前で新約聖書が配られていたことがあり、一度手にして、信じて救われるならと読んでみたこともありましたが、信じたところで何かが変わるわけではなく、くだらないと聖書から距離をとったことがありました。

そんな感じでずっとモヤモヤしていたのですが、高校生のとき、(ベタでちょっと恥ずかしいのですが)ゴッホに触れ感銘を受けました。それ以前まで、芸術は金持ちの道楽であり自分とは関係のないものと思っていたのですが、芸術家も一人の人間であり、苦悩する人間であるということ、そして単に苦悩するだけでなく、その苦悩に作品を通して格闘しているということ、それを知ったときに芸術が自分のものになったように思え、ただただ嬉しかったです。ゴッホに限らず、西洋の絵画やクラシック音楽などに触れるようになりました。

ところで、西洋の芸術にはキリスト教がかなり出てきます。ゴッホも、直接的な宗教画は多くありませんが、農民を描いたり、風景画の中に教会を描いたり、キリスト教を思わせるものが出てきます。私は西洋の芸術は素晴らしいと思いつつも、キリスト教がどうしても理解できませんでした。聖書に書いてあることをどうして信じられるのか、そして聖書の内容を信じることがどうして作品制作の活力となるのか、それがまったく理解できなかったのです。

なので私は、進学先として、龍谷大学文学部真宗学科を選びました。真宗とキリスト教は似ています。そして、私の実家は真宗の檀家で、おばあちゃんからは「なむなむ言っとけ」と言われて育ったので、真宗なら感覚的にわかるところがありました。なので、真宗からキリスト教へアプローチをすれば何かわかるかもしれないと考えたわけです。卒論は親鸞とパウロの比較思想研究で書きましたが、結局キリスト教のことはよくわかりませんでした。

それでも芸術は好きで、就職先は、芸術ではないけど近い分野で、また東京でしたから毎週のように美術館に通っていました。美術館に行っている間は生きていることが実感できる、とまで言ったら大げさですが、とても充実していました。そんな中で安積先生の話を聞くことになるわけです。今までずっと芸術だったのに、その芸術に逃げていただけだったことに気付かされ、どうしようもなくなったのでした。

さて、振り返ってみると、私の場合は最初からキリスト教だったのだなと感じます。死について考え始めた頃から聖書が近くにあり、また聖書を手放すものの、真宗学や芸術を通してキリスト教に触れ、自分のどん底を見たときにキリスト教が出てきた、ということだと思います。

ところで、私はかなり疑い深い人間なので、自分のどん底を見て神に頼った自分に気づいた後も、それでも神が本当にいるかはわからないと考えました。実際、神学において神が実在するかどうかはわからないということになっています。ですが、私が本当のどん底で神に頼ったのは間違いのないことです。よく言われるように、宗教が心の作用なのだとしても、本当の危機的な状況で神が出てきたということは、神は私にとっては重要なものだと思うのです。だったら、それにかけてみようと思いました。神が本当に存在するのかはわからないけど、でも、存在すると仮定して生きてみよう、そう思いました。

これから

そう決意してから、私は同志社大学大学院神学研究科に進学しました。キリスト教をちゃんと学びたいと思ったことと、龍谷大学で学んだ真宗、仏教が間違っているように思えなかったので、自身の信仰と他宗教との関係をどう考えればいいのか研究したかったからです。修論は宗教間対話について書きました。

そして、今では、行政書士として宗教法人や墓地、終活をメインに仕事をしています。様々な意見はありますが、いろいろな宗教と関わることで、宗教と宗教の関係を考えていきたいと思っています。また、宗教の偉い人だけでなく、普通の信者の方とも関わりたいと思い、終活も業務内容に組み込みました。さらに終活に関しては、私の経験から、終わりを考えることによって生が変わってくると思っていますので、単に終わりを考えるだけでなく、さらに踏み込んで生き方を考えられるような、そういうサービスを心がけたいと思っています。