なぜカルトにハマる?身近なカルト的思考

ニュースでカルト宗教の話を見て、どうしてカルトなんかにハマってしまったのだろう、という疑問を抱く人は少なくないと思います。ところで、カルトは、必ずしも「〇〇教」といった宗教の形を取っているわけではなく、もっと身近なところにもあります。この記事では、身近なカルト的思考を取り上げることによって、カルト宗教の「入り口」みたいなところを考えてみます。

カルト宗教の特徴

厳密に言うと、「カルト」という用語には悪い意味は本来なく、価値中立的な言葉です。しかし、一般的には悪い意味で用いられており、ここでもそれに従うことにします。

カルト宗教にもさまざまなものがあるので、なんとも言えないところはあるのですが、概ね、次のような特徴を指摘することができるでしょう。

まず、思考がない、あるいは思考をさせない構造になっています。たとえば、教祖様がこう言っているからとか、教典にこう書いてあるから、などと言ってそれに従います。なぜ教祖様がそう言ったのか、なぜ教典にそう書いてあるのかと吟味することをしません。

そして、極端な二元論に陥りがちです。教祖様や教典に書かれていることが絶対的に正しく、正しい者は味方で、それ以外は間違っており敵であると考えます。普通、物事は複雑で、またグラデーションがあるものなのですが、白黒をはっきりとさせてしまい、中間のグレーゾーンを考慮することができません。

また、教祖様や教典などといった正しいもの以外の悪いものは、滅びる、終わる、などとして排除する傾向があります。短絡的に考えがちなのです。

簡単にまとめると、思考がなく、二元論に陥りがちで、自分たち以外の者を排除する傾向があると、大雑把にですが言えるのではないでしょうか。

次に、このカルト宗教の特徴を踏まえた上で、身近なカルト的な思考について考えてみたいと思います。

身近なカルト

わかりやすいところでは、大学受験によく用いられる偏差値を指摘することができます。

大学を評価するには様々な視点から考えることができますが、大学受験において、偏差値を絶対的なものとして考える人がいます。東大、京大を頂点として、旧帝大や東工一橋、早慶、MARCHなどと続く形で評価されます。

そして、一定の偏差値を超える郡を大学、それ以下の偏差値のところは大学ではないと、二元論的に考え、大学でないところに入学してしまった場合には人生終了などのように考えます。

大学にはそれぞれ特色があり、偏差値だけでは大学を評価するのはかなり無理があるのですが、そこまで思考が回らず、また偏差値の正当性を批判的に考えることができない点は、カルト宗教に見られる思考がないことと類似します。また、偏差値を基準として、大学と非大学の2つに分けて考えるのは、カルト宗教の二元論と似ていますし、非大学に進学した場合は人生終了というのは、敵は悪であり滅びると考えるカルト宗教と似ています。

大学だけでなく、もっと広く考えてみると、日本では、いい大学に行っていい会社に行って安定的な家庭を築くのがよい人生であるという一定の価値観があるように思えます。このような価値観があるのは別に悪いことではないと思いますが、この価値観を絶対視していたり、いわゆるレールを外れた場合には人生終了と考えられたりする場合があります。これもある種のカルト的な思考と言えるでしょう。

つまり、繰り返しになりますが、いい大学いい会社というレールを走るのがいい人生であるという価値観を批判的に捉えることができず絶対視してしまうのは、教祖様が言っているから、教典に書かれているから、というのと同じですし、レールを走っているのは良くてレールから外れるのは駄目というのは要するに極端な二元論ですし、レールから外れた場合には人生終了というのはカルト宗教によく見られる終末論的な考え方です。

おそらく、以上のような考え方をしている人は決して少なくないでしょうし、また今は違うにしても以前はそのように考えていたという人もいるのではないでしょうか。自分にはカルト宗教は無関係だと考える人は多いですが、カルト的な思考は決して珍しいものではありませんし、また、それを対象化して批判的に捉えられる人はそう多くありません。なぜカルトにハマるのか、というよりも、そもそも人間はそのような思考をしがちなのかもしれません。

伝統宗教は批判から生まれてきた

そろそろまとめに入りたいのですが、伝統的な普通の宗教とカルト宗教は何が違うのかと気になる人は多いと思いますが、一言で言ってしまえば、思考を促すか否かです。

一般的に伝統宗教と言われるようなものは、その出発点が批判にあります。たとえば、キリスト教は、当時、決まり事にがんじがらめにされていたユダヤ教をイエスが批判したところから始まっていますし、仏教に関しても当時信じられていたウパニシャッド哲学を批判したところから始まっています。

このように考えると、「規則でそう決まっているから(理由は知らないけど)」とか「みんなやっているから」といった、思考のないところや思考をさせようとしないところには注意した方が良さそうだと言えるかもしれません。