宗教を信じるメリットは何か?宗教の機能的な側面

以前、私がキリスト教を信じるようになった理由をまとめた記事を書きました(なぜ宗教を信じるのか―私がクリスチャンになった理由― - 0024の個人ブログ)。ただ、読者さんからすると、そういうのではなくて、宗教の必要性のようなところを知りたいようです。というわけで、このあたりについて考えてみます。

宗教は人にとって不可欠なもの

おそらくですけど、宗教の必要性を知りたい人は、宗教は非合理的なもので、まともな人間であれば信じる必要のないものであるはずだ、という前提があるのだろうと思います。そのうえで、なぜわざわざ宗教を信じるのか、その必要性は何なのか、宗教を信じるメリットがあるとするならば、それは何なのか、というところが気になるのでしょう。つまり、宗教を機能的な側面から理解しようとしているのだと私には思われます。

ですが、宗教は、機能的な側面から要不要を考えられるようなものではありません。宗教を信じていないと考えている人でも、実は意識をしていないだけで、宗教的営みを行っているはずです。例えば、宗教は不要だと考える人でも、誰か大切な人が亡くなったらお葬式をあげるのではないでしょうか。最近ではお葬式の規模は縮小傾向にあるものの、それでもお骨をお仏壇やお墓に埋めたりするのが普通だと思います。ですが、宗教は不要だと言うのならば、人が死んだら供養など何もせずに生ゴミとして出してしまっていいことになります。法的に問題ということもありますが、それ以前に、それはやったらいけないだろ、という感覚があるのではないでしょうか。宗教とはそういうものなのです。(日本人は無宗教?なぜ無宗教と言われる? - 0024の個人ブログ

そうは言っても、やはり気になる人からすれば、なぜわざわざ宗教を信じようとするのかわからない、というのが本音なのだろうと思います。そこで、やや無理やりではありますが、宗教を機能的な側面から捉えて、宗教の必要性みたいなところ、つまり宗教を信じるメリットを、私なりに、以下にまとめてみようと思います。学問的な話ではなく、あくまでも私の意見です。

個人性を担保できる

個人というと何でも好き勝手していいみたいなイメージがありますが、そうではなくて、ここでいう個人とは、私人と公人の間としての個人です。

これについては変な説明をするよりも憲法を素材として考えたほうがわかりやすいかと思います。憲法でもっとも重要とされているのは個人で、その個人を見る角度によって、学校でよく習う三大原則、つまり国民主権、平和主義、基本的人権の尊重が出てきます。このうち、一人の人間に注目した場合に出てくるのが基本的人権の尊重であり、憲法11条に記されています。引用します。

国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。 この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

憲法は、基本的人権は与えられると書いていますが、では、誰から与えられるのでしょうか。これはキリスト教における神です。神が、個人としての人権を与えると考えられています。もちろん日本ではまた事情が変わってくるのですけど、法律系の資格予備校として有名な伊藤塾では、人権を与える主体を「天」と表現していました。なかなか興味深い表現ですが、やはり宗教的な表現を使わないと説明できないようです。

主観と客観の分離を防げる

世界ではさまざまな現象が起きていて、それは単に生じているのであり、そこに意味はないと思われますが、人間はその現象を主観を通して捉えます。なので、単なる現象に意味が与えられ、人間はそれに対してさまざまな反応を示します。

たとえば、犬が死んだとしましょう。その犬の飼い主は悲しみのあまり泣いてしまうかもしれません。あるいは、ショックが大きくて、学校や会社に行けなくなり、引きこもってしまうこともあるでしょう。犬はただの犬であり、その犬が動かなくなった(死をどう定義するか難しいところですが)という現象が生じただけです。ですが、飼い主にとっては、ただの犬ではなく大切な犬であり、その犬が死ぬというのは重大なことであり、実際に泣いたり、引きこもったりするという反応を示しているわけです。

しかし、その犬の死に対して、宗教を通して何らかの意味を与えることによって、また日常に戻ることもできるでしょう。たとえば、犬は死んだのではなく、遠くの世界に旅立っただけであり、またいつか再開ができる、そのときに自分の元気な姿を見せられるよう、また日常に戻ろう、などのようにです。

(かなりひどい表現になってしまいましたが、宗教を考えないというのはそういうことです。だから宗教は不要だというのは安易に言うものではないと私は考えます)

有限の無限化を防げる

これも先程の主観と客観の分離を防げることと関係するのですが、若干視点が異なるので、分けて書くことにします。

ここでのキーワードは虚構です。虚構というと悪いイメージがありますが、ここではそういう意味ではなく、ないものをあるとみなすことをいいます。

たとえば、虚構の代表的なものに法律があります。法律は形のあるものではありません。一応、六法に書いてあるものなので、本や書類という形を持っていると考えることもできますが、世界中から六法や法律が書いてある書類が消滅したとしても、法律そのものがなくなることはないでしょう。そして、この形のない法律をあるものとして考え、実際に生活をしています。これが虚構です。

補足すると、虚構の対概念として現実がありますが、虚構と現実は明確に区別することができません。たとえば、法律そのものは虚構ですが、法律に従って実際に生活をしていることは現実です。

前置きが長くなりましたが、虚構は人間が生み出すものであり、人間が有限である以上、虚構もまた有限です。しかしながら、人間は本来有限であるはずのものを絶対化し、無限なものへと引き上げようとします。たとえば、お金は虚構です。本来、お金は取引を簡略化させる道具に過ぎないわけですが、行動原理がお金のためになってしまうことがしばしば起こります。ある意味、お金教の信者とも言えるかもしれません。

宗教を信じていると、この有限であるはずのものを対象化することができ、虚構と適切な距離を保つことができます。

ところで、神は虚構ではないのかという指摘もできるでしょう。これはある意味、正しいです。ですが、キリスト教に関して言えば、聖書は、神のイメージの絶対化を避けるように作られています。イメージの絶対化を偶像崇拝といいますが、神の偶像化を信者にさせないようにしているのです。もう少し噛み砕いて言うと、私が信じる神とはこういうものであって、この神の姿こそが絶対的に正しいのだ(神の偶像化)、とは言わせないのです。その意味で、クリスチャンは神を盲信しているわけではありません。他方、カルト宗教と言われるようなところでは、信仰対象の絶対化を行い、たとえば、ただの人間であるはずの教祖を、無限なものへと偶像化させるとも言えるでしょう。

言い方を変えると、人間は有限なものを無限なものにしたいという欲求あるいは願望を持っているわけですが、宗教はそれへのワクチンであると言えるかもしれません。

行政書士を8ヶ月で廃業して感じたこと

行政書士試験に合格してすぐに、行政書士の登録をして開業したのですが、8ヶ月で廃業することになりました。行政書士になって、また廃業して、感じたことを書いてみたいと思います。これから行政書士を開業しようと考えている方に、少しでも参考になれば嬉しいです。

行政書士を8ヶ月で廃業した理由

私は令和4年度の行政書士試験に合格して、令和5年5月に開業、そして同じ年の12月に廃業しました。

廃業した理由は、司法書士試験の勉強のためです。その勉強に集中するために、行政書士を廃業しなければならなくなりました。ただ、多少このあたりの事情を知っている人からすれば、別に行政書士を廃業しなくても、登録だけしておいて、司法書士の勉強をすればいいのでは?と疑問を持たれるのではないかと思います。

それはまったくその通りで、実は、お金の問題ということになります。事務所の家賃だけで毎月4万円くらい消えてしまう、事務所を家賃のかからない自宅にしようかと思ったけどそれが難しい、そして生活費として最低限の収入は欲しいが行政書士で副業的に稼ぐのも難しい、ということで、廃業しました。

それで、すみません、若干タイトル詐欺的なところがあるので、ちゃんと言っておかないといけないのですが、完全に行政書士を諦めたわけではなくて、司法書士を取ったあとに行政書士はまたやるつもりでいます。ただ、開業した当時は完全に失敗していたと思います。

なぜ失敗したか

私の場合、かなりレアなケースだと思うのですが、専門分野が狭すぎたことが理由だと考えています。ちなみに、専門分野は宗教法人です。

そもそも私が行政書士になろうと思ったのは、大学でやっていた研究を実践に移したかったからです。私は龍谷大学で仏教を学び、その後、同志社大学の大学院で神学(キリスト教)を学びました。宗教間対話といって、どうすれば異なる宗教や価値観を持った人たちが共存していけるのかを研究していたわけです。行政書士は宗教法人を直接的に扱うことができ、宗教と多くの接点を持てます。宗教法人関係の仕事そのものを宗教間対話と言うつもりはありませんが、宗教との接点を持つことで、何かできるのではないか、何かにつなげることができるのではないかと考えたのでした。

龍谷から同志社って学歴コンプレックスがあったのかな?とか宗教勉強しているなんてキモい!とか、いろいろな意見があるでしょうけど、私としてはなかなかすごいことをやってきたのではないかと思っています。龍谷は仏教研究では世界的に有名ですし、同志社もユダヤ教・キリスト教・イスラームの3つの一神教を学べる大学としては世界で唯一であり、この2つの大学で(しかも京都という地で)仏教とキリスト教を学ぶことには大きな意義があります。

そして、この自負心が仇となりました。龍谷と同志社で勉強して、宗教法人専門の行政書士を開業したら、仕事は勝手に入ってくるだろうと思っていたのですけど、そんなに簡単ではありませんでした。ニッチ過ぎました。ついでに言うと、宗教つながりで終活支援とか、あと宗教を組織として見ると会社経営に応用できるので会社設立とかもやろうとしていたのですが、こちらに関しては完全に私の実力不足で、勉強が足りていなかったです。宗教の知識は多少自信があるものの、相続や会社については行政書士試験の知識だけではまったく役に立ちませんでした。

諸々準備不足だったなと思います。市場調査とか、営業とか、勉強とか。それからお金の準備ももっと必要だったと思います。開業にかかった費用は、登録費込で50万円程度で比較的安く済み、あと暫くの間の生活費として100万円くらい用意していたのですが、なんだかんだでお金は使うもので、貯金はすぐになくりました。行政書士だけでやるのはかなりきついぞ、となって7月には行政書士とはまったく関係のないバイトを始めたくらいです。

行政書士は稼げないのか

お金のことを言い出すけど、結局、この疑問が浮かんでくることになります。

行政書士は稼げないのか?

これについては行政書士で稼いでいる人を、行政書士会の中で多く見てきたので、稼げるとは思います。しかし、開業してすぐに稼げるようになるのはかなり厳しいのではないでしょうか。行政書士会の理事をしている人から聞いたことがあるのですが、開業したての頃はクレジットカードのリボ払いでなんとか生活していたそうです。最初は多くの人がこうなるのかもしれません。

私はカネもコネもないのに開業すべきではないと思います。私の場合、大学や宗教関係のところで多少の人間関係はありましたが、それでも仕事に結びつくとは限りません。また、お金についても、100万円程度ではないに等しいと感じました。

ところで、今稼げている先輩行政書士の先生方は、開業して間もない頃、どうされていたのでしょうか。私が所属していた会にはありがたいことに開業セミナーというものがあって、先輩の体験談を聞く機会があります。そこで思い切って、事業が安定するまでどうすればいいのか、聞いてみました。

「私は行政書士になってから事業が安定したと感じたことはありません」って返されたときはどうしようかと思いましたが(まあ私も行政書士とは別に自営業の経験があったので言いたいことはめっちゃわかるのですが)、具体的な方法を聞いてみると、2つの方法を教えてもらうことができました。受託業務と、車庫証明のような短期間で終わるものです。この2つをやればいいのではないかということでした。

行政書士になると受託業務を受けることができます(たとえば、市町村から無料相談窓口を開いてくださいみたいなのが来るわけです)。受託業務は有名なので、中には、開業したらしばらくは受託業務で生活をしようと考えている人もいるのではないでしょうか。この受託業務ですが、ちょっと使いにくいところがあって、他の地域の会がどうなっているのかわからないのですが、だいたいは登録制になっていると思います。で、年中登録できるわけではなくて、登録の募集がかかるのが年1回とかです。なので、入会のタイミングを間違えると、受託業務がまったくない、ということになりかねません。もちろん、受託業務は1つだけということはなく、複数あります。ですが、そんなに数があるわけではないですし、仮に登録しても、他の会員との兼ね合いで、あまり仕事が振られないこともあります。ですので、受託業務だけで生活をするのは、私は厳しいのではないかなという気がします。たぶん、仮に受託業務を全部受けられたとしても、月10万くらいしかないのではないでしょうか。

あと、車庫証明のような短期間で終わるものなのですが、単価も安いので、たくさんの依頼を受注するのが難しいです。これは車庫証明に限らないのですが、だいたいは、特定の分野に詳しい先輩行政書士、つまりライバルがすでにいます。このあたり、どうするのかが一つの課題になってくるでしょうか。

このようなことを考えていると、結局のところ、バイトとか派遣をやる方がいいよね、ということになってきます。ただ、私の経験からすると、バイトや派遣をやると、本業の行政書士業務に割ける時間が減ってしまうのと、スケジュール管理がめちゃくちゃ難しくなるので、可能であればシフト変更しやすいバイト・派遣を見つけるのがいいと思います。あと、この働き方は本当に休みがなくなるので、健康には気をつけてください。

行政書士は兼業が多い

実際の行政書士がどういう働き方をしているのか、会の人にいろいろと聞いて回ったところ、兼業している人がめちゃくちゃ多いです。そんなこと知ってる、ダブルライセンスがほとんどなんだろ?という声が聞こえてきそうですが、そうではありません。たしかにダブルライセンスの人は多いのですが、資格を持っていない人も多いです。つまり、行政書士と普通の仕事です。

上に書いたように、行政書士だけでやっていけず、消極的な理由で兼業をしている人も決して少なくないのですが、広告代理店やホームページ作成、物販などの士業ではない普通の事業をすでに営んでいて、その延長として行政書士をやっている、というような人がかなり多いのです。

私は、これはけっこう大事なことだと思います。ネットで調べると、行政書士の8割くらいは年収が300万円程度と出てきます。なんでこんな数字が出るのかというと、そもそも行政書士で稼ぐつもりがそんなにない、という人がそこそこいるからだと私は思っています。

また、このことは、怒られるかもしれないし、私の考え過ぎなのかもしれないのですが、行政書士業界として、行政書士としての働き方がまだ十分に確立できていないのではないか、とあくまでも私にはそう見えました。

行政書士だけでちゃんと稼げている人はどうしているか

これも気になって先輩に聞いたり、勉強会に参加したり(仕事がなく暇だったのでだいたいの勉強会には参加しました)で調べました。

管見の限りですが、2パターンしかないです。

1つは業務特化型です。これは言うまでもないと思います。私もニッチ過ぎましたが、うまく行っていればこれになっていたでしょう。

2つ目は地域密着型です。これは依頼があればできる範囲で受けるという感じで業務を絞っているわけではないのですが、活動する地域が限定的である点に特徴があります。地域はだいたいは学区で考えます。学区というとかなり小さいイメージもありますが、人口が200~300人もいれば、行政書士一人で抱えるには十分過ぎるそうです。

それで面白いのが働き方で、町内会や民生委員など、地域に関われることは全部やるそうです。なんなら、近所のおばあちゃんが「蛍光灯が切れたから交換して欲しい」と言ってきたら、やってあげるそうです。町内会や民生委員といった活動やおばあちゃんの頼み事などといったことは、言うまでもなく無償なので一切収入はないのですが、とにかくやって地域からの信頼を得る。すると、ふとした時に行政書士の仕事がもらえるそうです。

地域密着型の場合、月の半分くらいは行政書士とは関係のないことをやっているらしく、自分の本業が何なのかわからなくなることも多いと言っていました。行政書士の仕事を頼まれて、そう言えば自分は行政書士だった、と感じたこともあると言っていたほどです。

まとめ

さて、業務特化型はともかくとして、地域密着型も無償ではあるものの事実上の兼業だと私は思っています。このような働き方を見ていると、やはり行政書士の特徴でもある専門領域がないことが現れているのかな、という印象を私は受けました。この専門領域のなさが、行政書士の働き方の自由度の高さ(積極的な兼業が多い)を生むと同時に、働きにくさ(消極的な兼業に陥ってしまう)の理由なのかなと思ったりもしています。

私も今回は失敗したのですが、これから司法書士を取ったら行政書士もうまく使っていきたいと考えています。

行政書士開業へのよくある疑問

私の書きたかったことはだいたい書けたので、せっかくですので、行政書士開業についてよくある疑問を私の経験も交えながら答えてみたいと思います。

開業費用はいくら必要ですか

よく言われる目安は100万円です。しかし、事務所を借りるか自宅を使うかで大きく変わってくるでしょう。事務所を借りるならば、家賃、敷金、礼金などで20〜30万くらいはかかってしまうのではないでしょうか。

また、事務所を借りる借りないに関係なく、机や椅子、書棚などを新しく買うのであればそのお金も必要ですし、パソコンや複合機、電話機、FAXなど、揃えないといけないものはたくさんあります。

ちなみに私はレンタルオフィスを借りて開業しました。私が借りたところは、初期費用なしで家賃だけで使用でき、部屋には机や椅子が最初から設置してあって、複合機は共用のものを利用することができました。パソコンは前から使っていた自分のものをそのまま使うことにして、電話は個人のスマホをそのまま使い、FAXは電子版を使うなどした結果、初期費用は登録費の30万円と書籍代(これがけっこうしました、法律の専門書は高いですね)くらいだったと思います。

工夫次第で初期費用はかなり変わってくるかなと思います。

レンタルオフィスで開業できるのですか

私はできました。レンタルオフィスで開業されたい場合は行政書士会に一度問い合わせたほうがいいかと思います。

一応、注意点としていくつか指摘しておきたいと思います。

まず、きちんとした区切り、独立性が必要です。パーティションでもいいらしいので、しっかりとした部屋である必要はないのでしょうけども、ここで行政書士業務をやります、ということが客観的にわかるようにしておかなければなりません。なので、コワーキングスペースのような、机だけがある広い共用スペースでの開業は無理です。

それから、レンタルオフィス事業者と建物所有者が異なる場合は、その関係性を示す書類が必要になったような気がします。私の場合はレンタルオフィス事業者と建物所有者が同じだったので、このあたりスムーズだったのですが、違う場合はけっこう面倒です。

あと、レンタルオフィスだと賃貸借契約ではなく、会員契約みたいな感じのところもあると思います。私も会員契約だったのですけど、一応これでも大丈夫らしいです。行政書士の登録の際に、契約の種別を書かないといけないのですが、会員契約でもお金を払っているからとかで、賃貸借契約と同視するみたいな扱いを受けたと思います。ただ、このあたり、ケースバイケースなところもあるかもしれませんので、行政書士会に問い合わせるのが確実でしょう。

AIについて行政書士の反応はどんな感じですか

これから開業する人にとってはAIの影響はなかなか気になるところなのかなと思います。

私の周囲ではそんなに危機感を持っているような感じはありませんでした。chatGPTを使ってみよう、みたいなセミナーがあったりなど、会としても関心はあるのでしょうけど、焦りみたいなのは感じなかったです。

ITに詳しいベテランの行政書士の先生は、減る仕事もあるだろうけど、AIをどう活用していくのかを考えたほうがいいだろうとのことでした。

ちなみに、本文中に書いた地域密着型の働き方についてですが、これはAIの文脈でも語られることがありました。つまり、地域における濃い人間関係はAIには省略できない、ということらしいです。

政治連盟には加入したほうがいいですか

どっちでもいいと思います。加入しなくても怒られたりとか、嫌がらせされたりとかはまったくないので、お金がもったいないなら加入しなくてもいいでしょう。

ちなみに私は加入していたのですが、人脈が広がったり、講演会に参加できたりなど、メリットはあったなと感じました。

ひよこ狩りってあるんですか

私は経験しなかったです。ただ、ひよこ狩りとは違いますけど、開業すると行政書士会のホームページに会員情報が掲載されるので、そこに載せている電話番号に営業の電話(ホームページ作りませんか?とか複合機導入しませんか?とか)がめっちゃかかってきて、開業時の洗礼を受けることになります。

他士業と仲が悪いって本当ですか

ダブルライセンスの人が珍しくないので、そんなに仲が悪い印象は受けなかったですね。でも他士業の愚痴を言っている先生はたしかにいました。個人レベルではそういう小さいのはちょこちょこあっても、まあ別にそんなもんかな、と私は思います。行政書士会としてとなると他の士業の会とは交流は盛んだと思います。会として他士業を批判するのはマズイというものあるでしょうけど、仲が悪いということはないかなぁ、という印象ですね。

ところで、業際問題は実際にちょこちょこ問題になるのですが、個人レベルで考えると、しっかりと稼いでいる先生は他士業を尊重していると思います。たとえば、弁護士だったら行政書士の仕事もできますけど、役所での手続きは行政書士に任せていらっしゃいます。まあ、手続きを自分でやっている暇がないということもあるでしょうけど、プロにちゃんと任せるということなのだと思います。

特定行政書士は取ったほうがいいですか

好きにすればいいのではないかなと思います。私の場合、廃業するのが目に見えていたこともあって取得しなかったのですが、仮に廃業しなかったとしても、うーん、どうでしょうか、悩ましいところですね。

というのは、特定行政書士を取っても仕事がほぼないからです。特定行政書士を取ったけど仕事は一回もしたことがない、という人は決して珍しくないですし、たぶん、その方が大多数でしょう。行政書士会のオフシャルなものだったか覚えていないのですが、偉い人がコメントで、仕事はあまりないけどしっかりと行政法の知識を持っていることのアピールとして有効だ、みたいなことを言っていて、それ言っちゃっていいんだと感じたことを覚えています。それくらい仕事はないです。

特定行政書士の難易度については、ここ最近の行政書士試験の行政法とそんなに大きくは変わらないくらいだそうですが(それだったら、昔の簡単な試験をパスした人にとっては意味があるかもしれないけど、最近の試験をパスした人にとっては本当に意味がないことになってしまうような気がします)、研修などでそこそこお金もかかるそうです。このあたり、どう考えるか、でしょうかね。

行政書士はモテますか

既婚者は多いかなとは感じますが、単に年齢層が高いので既婚者の割合も多くなってるだけかもしれません。私の場合は行政書士になる前から付き合っていたので、なんとも言えないです。

ところで、あまり関係ありませんが、弁護士は頭がいいけどプライドが高いから、謙虚そうな行政書士がいいみたいな話を聞いたことがあります。それはそれでどうなんだ、と思わないでもないのですが、ただ、どんどん話がそれるのですけど、行政書士が他者からどう見られているのかという意味では、興味深い意見だと思います。やはり、士業以外の普通の人からすると、資格取得の難易度で士業を評価しているところがあると思うのです。

行政書士会としては「街の法律家」という言葉を使っていますが、たぶん、一般的な感覚では、法律関係の仕事をしている弁護士ではない何か、くらいの素朴なものだと思います。そして、そういうよくわからないものだからこそ、資格取得の難易度という客観的指標が注目されがちなのかと思うのです。こういうイメージに対してどう対応していくのかは行政書士の一つの課題なのかもしれません。

初学者が独学で行政書士試験に合格した勉強法

私は独学で行政書士試験(令和4年度)に234点で合格しました。行政書士試験を受けようと思うまで法律を勉強したことはありません。初学者で、しかも独学で230点を超えることはかなり珍しいそうです。そこで、私がやっていた勉強法を紹介しようと思います。

勉強時間

フルで仕事をしながら勉強していました。平日の勉強時間は約2時間。休日はだいたい6〜8時間やっていました。本格的に勉強を始めたのが5月くらいですので、半年くらい勉強していたことになります。合計の勉強時間は800時間はいっていないくらいでしょうか。ネットでは、合格に必要な勉強時間の目安として、600〜1000時間と言われることが多いらしく、私の場合もちょうど当てはまるのかなという感じです。

ちなみに、冒頭にも書きましたが、行政書士試験の勉強を始めるまで、法律の勉強はしたことがありません。まったくの初学者です。

使用した教材

スタートダッシュを除いた合格革命シリーズ一式と、LECの直前予想模試を使いました。他に教材は使っておらず、六法も合格革命の基本書に付属していたものを使いました。判例集は使っていません。

LECの直前予想模試を使ってはいますが、合格に必要な知識は合格革命シリーズで全部得たと思っています。LECのは、試験本番の一週間くらい前に急に不安になり、きちんと実力がついていることを確認するために、安心するために使ったという感じです。合格革命シリーズの知識だけで、LECの3回分の模試すべてで230点前後を取れていたので、合格革命シリーズは信頼できると思います。

しかし、裏を返せば、LECの模試で230点前後、本試験でも234点ですから、LECの教材はかなり質が高いと言えるとも思います。私は何となくで合格革命シリーズを選びましたが、LECの教材一式を使うのもいいかもしれません。それか、伊藤塾も有名ですので、その教材でもいいでしょう。

この記事を書くにあたり、他の合格体験を記したブログやYouTube動画などを見たのですが、どの教材を使うかにかなり力を入れて紹介していたように思います。しかし、結局のところ、どの教材を使うかはそれほど重要ではなく、しっかりと勉強して知識を身につけることが重要なのだと思います。公務員試験や司法書士など、似た分野の過去問も解くべきだとか、色々な意見がありますが、教材に関してはあまり複雑なことを考えなくても、各出版社が出している教材一式を揃えておけばいいかと思います。費用もだいたい1万円くらいですから、そんなにめちゃくちゃ高いものではないでしょう。

勉強方法

教材の使い方に関しては、教材の最初の方に書いてある「本書の使い方」的なページをそのまま参考にしました。つまり、合格革命シリーズに関しては、基本書と問題集を交互にやって、力がついてきたら過去問をやる、みたいな感じです。ひねくれた使い方はしていません。

しかし、私の勉強方法として、少し特殊な点があるかもしれません。それは、本を一周するのに時間をかけないことです。

たぶん、ほとんどの人は基本テキストと問題集を初めて一周するのに3ヶ月くらいかけているのではないかと思います。けっこう分厚い本ですから、それくらいかけたくなるのもわからないではありません。しかし、そのやり方だと、最後の方まで学習を進めた頃には、最初の方にやったことをほとんど忘れてしまっています。

私は一ヶ月くらいで1周しました。本当は2週間くらいで終わらせたかったのですが、仕事もあって時間がかかってしまいました。ですが、一ヶ月で1周目を終わらすのはそこそこ速い方だと思います。そして、2周目は、だいたい2週間くらいで終わらせました。1周目ですんなりと理解できたところは飛ばし、理解しにくかったところを重点的にやっていくことで一周目よりも短時間で終わらすことができます。そして3周目も同じように、2周目でわかりにくかったところを重点的にやるという形で、1週間くらいで終わらしました。これを繰り返すことで、短期間で知識を得ることができるようになります。

過去問も同じ要領でやりました。かなり問題数が多いですが、とにかくサッと1周目を終わらせる。そして、間違えたところだけを2周目にやる。2周目に間違えたところを3周目でやる、というように学習を進めていきました。

そして、学習の際に活用したのが付箋です。間違えた問題すべてに付箋を貼りました。Amazonで120枚入のポストイットを10個近く買い、間違えた問題1つ1つに貼っていきます。最初は付箋がいっぱいで大変なことになりますが、付箋を貼ることで間違えた問題が明確になり、便利です。正解したら付箋を外していくわけですが、徐々に付箋が減っていくのが目に見えてわかるので、理解が深まっていることが視覚的にもはっきりとし、成長していることが実感できていいのかなと思います。

上の画像のような形で付箋をつけまくっていました。これは当時のものではなく、今勉強している司法書士の問題集なのですが、やり方は当時とまったく同じです。前半の付箋が少なくなっているところが2周目をおえたところで、後半の付箋がいっぱいついているところは1周目で間違えたところです。2周目は1周目で付箋をつけたところだけをやっている感じですね。

ところで、勉強する範囲について、会社法は5問しか出題されないから捨ててしまおうとか、行政書士試験では6割取れたら合格できるから力を抜いて勉強してもいいとか、そういう意見をネットで見ました。しかし、教材に書いてあることはすべて理解するつもりで勉強した方がいいと思います。というのは、教材の最初の方にも書いてあると思いますが、合格に必要な情報だけを集めたものがあの教材からです。

案外忘れがちなのですが、教材に書いてあることは全部重要です。6割取れたらいいからといって、教材の6割を理解すれば合格できるわけではありません。教材の全部を理解して、ようやく試験で6割を合格できるように作られているのです。例えば、教材に憲法はあまり多くのページをさかれていませんが、本屋で憲法の本がある棚を見るとわかるように、大量の本があります。本来、それくらいの量があるものを、あの教材に詰め込んでいるのです。そう思うと、分厚い教材も薄く見えてくるのではないでしょうか。とにかく、変なことを考えずに、教材をしっかりと勉強することが大切だと思います。

勉強のコツ

行政書士試験を何度も受験される方もいらっしゃるようです。ブログ記事やYouTube動画ではあまり語られていないようなのですが、でも私は大事なことだと思いますので、批判覚悟で書きますけど、少なからず、文章を読めない人がいらっしゃるようです。

これは研究でも明らかになっているのですが、7割の人は文章を読めないそうです(新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』)。元の研究は学生を対象に調査をしたようですが、大人になっても割合はそれほど変わらないでしょう。勉強は基本的に文章を読んで行うわけですが、文章を読んで、そこから適切に意味を汲み取ることができないなら、どれだけ勉強しても(文章を読んでも)理解できない、点数に結びつかない、ということになってしまいます。また、問に対する知識を持っていたとしても、問題文を適切に読むことができず、誤った回答をしてしまうこともあるでしょう。

それでは、文章を読めないならどうすればいいのかということになるのですが、これはひたすらに訓練するしかないように私は思います。読み書きは自然的な行為ではなく、人工的な行為だからです。法律の勉強以前に、文章に触れる訓練が必要になってくるかもしれません。

正直なところ有効かどうかわからないのですが、私が文章を読む際に気をつけていることを2つ紹介したいと思います。それは、具体的なイメージを持つことと、概念の階層構造を意識することです。

具体的なイメージを持つ

具体的なイメージを持つというのはそのままの意味です。文章を読んだときに、その内容を頭の中で具体的に想像してみます。想像できるのならある程度は理解できているでしょうし、容易に想像できないようならそれはたぶん理解できていないです。

ただ、法律の用語はとっつきにくく、そもそも概念を習得するだけでもかなり時間がかかります。文章を読めていなくてイメージができないことと、概念の習得ができていなくてイメージできないことでは意味が違ってくるでしょうから、その区別をすることが大切であるように思います。

文章を読めているかどうかという意味では、一般知識の文章理解のような法律とは関係のない文章を読む際に、その内容を頭の中でイメージできるかどうかで判断するのがいいのかもしれません。

概念の階層構造を意識する

概念には階層があります。例えば、犬という概念の下には、柴犬や秋田犬、チワワなどといった概念があります。また、犬という概念の上には動物という概念を想定することができるでしょう。この犬という概念を基準とした場合の、柴犬や秋田犬といったものを下位概念といい、動物という概念を上位概念といいます。

この概念の階層構造を理解することは文章に触れる際にとても重要なことだと私は思っているのですが、法律を学ぶ際はとりわけ重要になってきます。たとえば、民法の物件には、占有権、所有権、担保物権、用益物権とあり、また担保物件には抵当権や留置権などといったものがあるというように、きれいな階層構造を持っています。これは法律全般に言えることで、この概念の階層構造を把握することで、法律の全体像が見えてきます。

何を言っているのかわからないという場合は、パソコンのフォルダを想像してみてください。あるフォルダを展開すると、その中に収納されている他のファルダやファイルが出てくるようなイメージです。

まとめ

いろいろと書きましたが、とにかく、ひねくれた考えを持たずに、教材一式を揃えて、教材に書いてある内容を全部理解することが大切です。そして、内容をしっかりと理解するために、1周するのに時間をかけず、何度も繰り返すことが大切になってくると思います。テキストを読む、問題を解いてみる、間違えたらテキストに戻って読み込み、ふたたび問題を解く、これを真面目にコツコツとやっていくしかないでしょう。

行政書士試験はやることをやっていれば合格できる試験だと私は思います。資格の中では難関だと言われますが、法律系の中ではかなり簡単です。また、初学者の方であれば特にそうだと思いますが、法律の勉強は難しいという印象を受けるのではないでしょうか。しかし、憲法や民法をちょっと見てみるとわかるように、法律は、そんなに高度なことを言っているわけではありません。法律の学習は、相対性理論のような一部の人にしか理解できない複雑なことをやるわけではないので、普通に文章を読む力があるならば、誰でも理解できるものです。ただ、細かいルールが多いために習得するのに時間がかかるというだけの話です。

特に才能がなくてもやることをやっていれば合格できる試験だと思いますので、勉強は苦しいかもしれませんが、頑張ってみてください。

試験についてよくある疑問

最後に、行政書士試験について受験生が抱きがちな疑問について簡単に答えてみたいと思います。受験生から直接に質問を受けたわけではありませんが、繰り返しになりますけど、この記事を書くにあたって他のブログ記事やYouTube動画などを見ました。またコメント欄なども見ました。そこによく出てきた受験生の疑問に、私なりに答えてみたいと思います。

一般知識はどうやって勉強すればいいですか

私は一般知識は48点だったのですが、何か特別なことはやっていません。それこそ、教材に書いてあることを勉強したくらいです。

たぶん、教材にも書いてあると思うのですが、まともに対策できるところは文章理解と情報系のところだけで、他の社会とか経済とかは過去問を見るくらいしかできないでしょう。こういう書き方をするとけっこう不安になってしまう方もいると思うのですが、試験を作る側としても、わけのわからない問題を出題して不合格者が続出する事態になるのは避けたいので、そんなに心配しなくてもいいと思います。

私のときは、令和4年度に受験したのですが、今ではちょっとしたネタになっているのでご存じの方もいると思うのですけど、ヒラリー・クリントンがアメリカ大統領になった、みたいな問題が出たほどです。試験本番では緊張して間違えた人も多かったそうですが、こういうレベルの問題も出るので、確実に取っていけば大丈夫でしょう。

記述式の採点はブラックボックスなのですか

採点の基準ははっきりしないので、ブラックボックスと言えばそうなのかもしれません。しかし、私は記述式は50点でしたが、ちゃんと点数をくれてるんだなという印象を受けました。2問完答したのですが、そのうちの1問は少し余計なことを書いたので、減点されるのを心配していたのですけど、ちゃんと20点くれました。また、間違えた問題に関しても、部分点で10点くれていました。なので、そんなに変な採点はしていないと思います。

予備校の模試はわざと難しく作られているのですか

これは最初、意味がわからなかったのですが、調べていると、予備校の利用者を増やすために、市販の模試をわざと難しく作って、不安を煽っている、という噂があるそうです。

これも実際どうなのかは知りませんが、でも、私はLECの市販の模試をやっています。点数は3回とも230点前後で、本試験でも234点でしたから、難易度はほぼ同じです。他の予備校が出している模試はやっていないので、わかりませんけど、少なくとも、LECに関しては変なことはしていないのではないでしょうか。

しかし、正直なところ、模試で点数が取れていないのならば、基礎ができていないのだと思います。変なことを考える前に、勉強に集中したほうがいいかもしれません。

行政法と民法だけで合格できますか

YouTuberが行政法と民法だけで行政書士は合格できると言っていて、驚きました。そのYouTuberは自信満々に合格できると言っていたのですが、できなくはないだろうけど、相当厳しいと思います。行政法と民法だけで合格しようと思ったら、ほぼ全問正解しないといけないことになってしまうからです。

行政法と民法をほぼ全問正解レベルにまで持っていくなら、かなり網羅的に勉強しないといけないことになりますが、そんな時間あるんだったら憲法と会社法をやっている方が楽なのではないでしょうか。

何度も言いますが、ひねくれた考えを持たずに、教材一式を揃えて、教材に書いてあることをしっかりと理解すれば行政書士試験は合格できます。

行政書士試験の難易度は上がりすぎではないですか

試験の難易度が上がってきているのは間違いないと思います。私も行政書士に登録して先輩と話していたとき、昔の試験は本当に簡単だったと仰ってました。

しかし、試験一般として見ると難関資格でしょうけども、法律系の資格の中では簡単だと思います。今、私は司法書士の勉強をしているのですが、振り返ると行政書士は簡単だったと感じます。これは、行政書士と司法書士では、司法書士の方が民法のレベルが高いとかそういうのではありません。同じ民法ですし、内容はそんなに変わらないのですけど、試験範囲が行政書士の場合は少ないのです。なので、かなり勉強しやすいと思います。

ついでに言うと、実際に行政書士として働くのであれば、法律を運用していくわけですが、行政書士試験だけの知識ではかなり心もとないと感じます。ここ最近は相続関係が人気ですが、行政書士試験の知識だけで相続業務をするのははっきり言って無理です。その意味では、資格取得だけを目的としている場合なら大丈夫ですが、行政書士で仕事をするつもりなら割と本気出して勉強しないと将来大変なことになるかもしれません。試験勉強中に法律に慣れておいたほうがいいと思います。

受験料高すぎませんか

高いと思います。ですが、決まっていることなので仕方がないですね。どうやら試験センターもお金に苦労しているらしいです。

ところで、試験とは関係ありませんが、お金についてです。もし将来独立を考えているのであれば、かなりお金がかかるので気をつけてください。行政書士会に登録しないと行政書士として仕事ができないのですが、登録するだけで30万円前後かかります。加えて、事務所を借りるのであれば家賃がかかりますし、パソコンやプリンター、電話、FAX(この時代にって感じもしますが、あったほうがいいです)などなど、揃えるべきものがたくさんあります。そうすると、開業だけで100万円くらいしますし、また開業してすぐに仕事が安定することはまずないですから、生活費も念のために2〜3年分くらいはあった方がいいです。

何が言いたいかというと、とにかくお金がかかるので、もし受験料だけでかなり厳しいようなら将来はもっと厳しいことになるので、計画的に動いたほうがいいと思います。

宗教リテラシーを高めるには?カルト宗教から身を守るために

カルト宗教から身を守るためには宗教リテラシーを高めるのが有効であると言われています。それでは、宗教リテラシーを高めるにはどうすればよいのでしょうか。この点について、考えてみます。

なぜ宗教リテラシーが有効?

ここ最近、旧統一教会の件もあり、日本ではカルト宗教の被害者がクローズアップされるようになってきました。しかし、カルト宗教が問題になっているのは日本に限ったことではなく、西洋などでも同じことが言え、特にフランスではカルト宗教の問題がしばしば取り上げられます。

ところで、フランスの隣にあるドイツではカルト宗教の問題はあまり多くありません。フランスでは多くあるのに、ドイツではあまりないのはなぜでしょうか。

いろいろな要因が考えられるでしょうが、その一つとして宗教教育の有無を指摘することができます。フランスでは政教分離の原則(ライシテ)がかなり厳しく定められており、日本と同じように公教育で宗教教育をすることができません。

他方、ドイツでは、政教分離の原則はあるものの、それほど厳しいわけではなく、学校でしっかりと宗教教育をしています。

つまり、フランスでは宗教教育を行わないために、宗教リテラシーが養われず、宗教への接し方がわからずにカルト宗教へハマってしまうのに対して、ドイツでは宗教教育によって宗教リテラシーが養われ、カルト宗教に騙されることがない、というわけです。

フランスのドイツの違いも複雑なので、簡単に比較はできないのですが、以上のようなことがあるので、宗教リテラシーを高めることがカルト宗教から身を守るのに有効なのではないかと期待されています。

学校で学ぶのが一番いいけど…

それでは、宗教リテラシーを高めるにはどうすればいいのでしょうか。一番いいのは宗教についての教育をしっかりと受けることです。

しかし、日本で宗教を学べる場は多くありません。宗教について学べそうな場と言えばお寺や神社、教会などを連想されるかもしれませんが、それらの宗教施設は勉強の場として施設を開放しているわけではないですし(中には勉強させてくれるところもありますが多くはありません)、また仮に勉強できたとしてもその宗教団体の信仰を前提として学習になるでしょうから、宗教一般についてのリテラシーを高めるという意味ではあまり適しているとは言えません。

まともに学べる場と言えば大学くらいしかないのですが、大学でも宗教を学べるところは限られていて、それこそ東大や北大といった有名大学くらいです。

もう少し広く考えると、特定宗教の建学の精神を持つ私立大学であれば、その宗教に関連する講座をだいたいは置いていますが、多くは必修ではありませんからほとんどの学生は興味を持たず、仮に受講したとしても、その講座だけで宗教に対する考え方を十分に養うことは難しいでしょう。

そもそも、宗教リテラシーを高めるために大学まで行って宗教系の学問を専攻する、あるいは宗教系の講座を受講するというのもなかなか難しい話です。

アニメやマンガの可能性

日本で宗教について学べるところが少ないということで、最近ではアニメやマンガが宗教教育のきっかけになるのではないかと期待されています。

アニメやマンガが宗教とどう関係するのかと疑問に思われるかもしれませんが、宗教的な要素がかなりたくさん含まれています。代表的なものとしてジブリ作品を指摘できるでしょう。たとえば、もののけ姫では、自然や動物の中に神々が出てきており、どこにでも神がいるという日本のアミニズムをよく表現しています。千と千尋の神隠しでも、多くの神々が登場しており、人間と神の関係が描かれています。

他にも、ドラゴンボールでは悟空があの世で修行したり、ドラゴンボールを使って復活させたりなどしていますし、ポケモンではナゾノクサやイシツブテなど自然が命を持っていることが表現されています。

攻殻機動隊では科学的な表現が取られていますが、扱われているテーマは宗教的ですし、また海外の作品になりますが、攻殻機動隊から影響を受けたマトリックスはキリスト教の世界観をモデルにしています。

このように考えると、宗教を学ぶ素材自体は日本にはかなり豊富にあり、しかもかなり親しみやすいというメリットもあります。

しかしながら、日本人の多くはアニメやマンガを見ているものの、宗教に関する知識を持っていません。言うまでもなく、「これは宗教だ」という自覚を持って作品に触れないと、単に面白いコンテンツとして消費されるだけなので、いずれにせよ、前提として宗教がどういうものであるのかという知識が必要となってきます。このあたり、アニメやマンガを素材として使う場合の課題として指摘できるかと思います。

まとめ

結局のところ、どうやって宗教の勉強をすればいいのかということになるのですが、日本では宗教についてしっかりと学べる場が十分には整備されていないというのが現状です。しかしながら、宗教は決して自分とは無関係なものなのではないことを自覚すること、そして宗教に対して関心を持つことが重要なのだと思います。

なぜカルトにハマる?身近なカルト的思考

ニュースでカルト宗教の話を見て、どうしてカルトなんかにハマってしまったのだろう、という疑問を抱く人は少なくないと思います。ところで、カルトは、必ずしも「〇〇教」といった宗教の形を取っているわけではなく、もっと身近なところにもあります。この記事では、身近なカルト的思考を取り上げることによって、カルト宗教の「入り口」みたいなところを考えてみます。

カルト宗教の特徴

厳密に言うと、「カルト」という用語には悪い意味は本来なく、価値中立的な言葉です。しかし、一般的には悪い意味で用いられており、ここでもそれに従うことにします。

カルト宗教にもさまざまなものがあるので、なんとも言えないところはあるのですが、概ね、次のような特徴を指摘することができるでしょう。

まず、思考がない、あるいは思考をさせない構造になっています。たとえば、教祖様がこう言っているからとか、教典にこう書いてあるから、などと言ってそれに従います。なぜ教祖様がそう言ったのか、なぜ教典にそう書いてあるのかと吟味することをしません。

そして、極端な二元論に陥りがちです。教祖様や教典に書かれていることが絶対的に正しく、正しい者は味方で、それ以外は間違っており敵であると考えます。普通、物事は複雑で、またグラデーションがあるものなのですが、白黒をはっきりとさせてしまい、中間のグレーゾーンを考慮することができません。

また、教祖様や教典などといった正しいもの以外の悪いものは、滅びる、終わる、などとして排除する傾向があります。短絡的に考えがちなのです。

簡単にまとめると、思考がなく、二元論に陥りがちで、自分たち以外の者を排除する傾向があると、大雑把にですが言えるのではないでしょうか。

次に、このカルト宗教の特徴を踏まえた上で、身近なカルト的な思考について考えてみたいと思います。

身近なカルト

わかりやすいところでは、大学受験によく用いられる偏差値を指摘することができます。

大学を評価するには様々な視点から考えることができますが、大学受験において、偏差値を絶対的なものとして考える人がいます。東大、京大を頂点として、旧帝大や東工一橋、早慶、MARCHなどと続く形で評価されます。

そして、一定の偏差値を超える郡を大学、それ以下の偏差値のところは大学ではないと、二元論的に考え、大学でないところに入学してしまった場合には人生終了などのように考えます。

大学にはそれぞれ特色があり、偏差値だけでは大学を評価するのはかなり無理があるのですが、そこまで思考が回らず、また偏差値の正当性を批判的に考えることができない点は、カルト宗教に見られる思考がないことと類似します。また、偏差値を基準として、大学と非大学の2つに分けて考えるのは、カルト宗教の二元論と似ていますし、非大学に進学した場合は人生終了というのは、敵は悪であり滅びると考えるカルト宗教と似ています。

大学だけでなく、もっと広く考えてみると、日本では、いい大学に行っていい会社に行って安定的な家庭を築くのがよい人生であるという一定の価値観があるように思えます。このような価値観があるのは別に悪いことではないと思いますが、この価値観を絶対視していたり、いわゆるレールを外れた場合には人生終了と考えられたりする場合があります。これもある種のカルト的な思考と言えるでしょう。

つまり、繰り返しになりますが、いい大学いい会社というレールを走るのがいい人生であるという価値観を批判的に捉えることができず絶対視してしまうのは、教祖様が言っているから、教典に書かれているから、というのと同じですし、レールを走っているのは良くてレールから外れるのは駄目というのは要するに極端な二元論ですし、レールから外れた場合には人生終了というのはカルト宗教によく見られる終末論的な考え方です。

おそらく、以上のような考え方をしている人は決して少なくないでしょうし、また今は違うにしても以前はそのように考えていたという人もいるのではないでしょうか。自分にはカルト宗教は無関係だと考える人は多いですが、カルト的な思考は決して珍しいものではありませんし、また、それを対象化して批判的に捉えられる人はそう多くありません。なぜカルトにハマるのか、というよりも、そもそも人間はそのような思考をしがちなのかもしれません。

伝統宗教は批判から生まれてきた

そろそろまとめに入りたいのですが、伝統的な普通の宗教とカルト宗教は何が違うのかと気になる人は多いと思いますが、一言で言ってしまえば、思考を促すか否かです。

一般的に伝統宗教と言われるようなものは、その出発点が批判にあります。たとえば、キリスト教は、当時、決まり事にがんじがらめにされていたユダヤ教をイエスが批判したところから始まっていますし、仏教に関しても当時信じられていたウパニシャッド哲学を批判したところから始まっています。

このように考えると、「規則でそう決まっているから(理由は知らないけど)」とか「みんなやっているから」といった、思考のないところや思考をさせようとしないところには注意した方が良さそうだと言えるかもしれません。

聖職者もうつ病になる?その原因は?

日本ではあまり認知されていませんが、僧侶や牧師といった聖職者でもうつ病になることは珍しいことではなく、しばしば問題となります。なぜ聖職者がうつ病になるのかについて、この記事では考えてみます。

そもそもの誤解

僧侶や牧師といった聖職者がうつ病になることは珍しいことではないのですが、あまり注目されることはないようです。労災認定など、具体的な出来事があったときにはニュースになることもあるのですが、その場合には、「僧侶なのにうつ病?」などのように、意外性を持って受け止められることが多いように思います。

おそらくですが、意外性があると感じられるのは、聖職者(宗教者)は悩んでいる人の心を癒やすのが仕事なのに癒やす側がうつ病になってしまっているとか、神仏の加護はないのか、といった感じで受け止められているからなのでしょう。

しかしながら、聖職者とはいえ人間であることに変わりはありませんし、神仏を信じているからといって身体的な変化が突如現れるなんてこともありません。神仏がいるとしても、それへの対応としての宗教は人間の営みであるので、まずはその点の誤解を解いておく必要があるように思えます。

さて、次に聖職者がうつ病になってしまう原因について考えてみましょう。

責任が大きい

聖職者は信者を癒やすのが仕事だというイメージが強いかと思いますが、それは間違ってはいません。実際、信者の精神的な問題や苦悩について聖職者は対応をします。信者からの相談には、生死に関わる相談や重い病気に関するもの、家庭内暴力などといった重いものも含まれます。そして、当然と言えば当然なのですが、聖職者は信者の悩みを真剣に聞き、共感をしていく必要があるので、その負担が大きくのしかかることになります。信者は、聖職者に言えば何とかしてくれるだろう、という期待が強いので、聖職者のプレッシャーは大きいです。

また、聖職者はその宗教組織の代表となる場合が多いです。代表ということは、その組織を運営、経営していく立場となります。信者一人ひとりを見つめながらも、組織全体としての人間関係も考え、そしてお金のやりくりなど経営的な視点も必要です。一般的に、宗教はお金を持っていると思われがちですが、それはごく一部の観光などで有名な宗教団体だけで、大部分はお金がありません。少ないお金で組織の運営を考えていかなければならず、運営を間違えれば組織全体が潰れかねないので、責任はとても大きいです。

孤独感が強い

日々、信者との交流はあるものの、聖職者はその宗教組織の代表者であり、指導者であるので、信者とは一定の距離感が生まれます。また特定の信者と仲良くするということをすると、組織運営上、他の信者との人間関係が悪くなったり、組織内に派閥が生まれてしまって組織の統一感が失われてしまうなどの問題が生じる可能性があるため避けなければなりません。そうすると、周囲に人はいるけど、自分の意見を言い出せないことになり、孤独感が強くなります。

また、一般的なイメージの通り、実際に聖職者は信者の悩みを聞く側であるというプライドのようなものが聖職者にもあり、これが邪魔をして誰かに悩みを相談するということができません。

そもそも、日本では聖職者という仕事があまりにも特殊であるため、同じ立場にある人が周囲におらず、相談するにも相談できる人がいないということもあります。

プライベートがない

聖職者の労働時間はかなり長いです。たとえば、比較的大きなお寺の僧侶であればあるあるなのですが、朝の5時くらいにお寺でお経を唱える、などといったことをします。朝の5時に始まるのですから、準備などを含めるとかなり早くに起きなければなりません。そして、通常であれば昼過ぎくらいに「仕事」は終わるのですが、そうは言っても世間ではまだ昼なので、なんだかんだでやることが出てきて、本当に終わるのは夜遅くになっていることが珍しくありません。そして、また朝早くに起きることになります。

そして、休日であっても、たいてい住まいは宗教施設の中やすぐ隣であるので、信者が訪ねてくることもあり、急な対応を求められることになります。

普通の会社などであれば、こんな働き方はありえないものですが、聖職者だからという理由になっていない理由で働かなければなりません。聖職者自身もそういうものだという意識を持っているために、労働問題に発展することは少なく、実際に発展した場合にはニュースになることもあります。そして「聖職者なのに?」と意外性を持って受け止められるわけです。疎外感も感じられるでしょう。

まとめ

他にもいろいろと原因は考えられるのですが、これだけでも聖職者がうつ病になってしまう理由はわかるのではないかと思います。聖職者とはいえ人間ですし、人間である以上、責任の重い仕事を一人で抱えて休みもなく働き続ければうつ病になるのも無理はありません。聖職者もしっかりと休むことが重要だと思われます。

ところで、私は宗教のオンラインカウンセリングを行っています。実際にうつ病などになってしまっている場合は私にはどうすることもできないのですが、日頃のストレスを発散したい、モヤモヤしているものを吐き出したいという場合にはご利用いただければと思います。

オンラインカウンセリング宗教相談室

心理カウンセリングと宗教カウンセリングの違いとは?

カウンセリングと宗教の違いについて疑問に思われる方がしばしばいらっしゃるので、この違いを簡単に解説してみます。

なお、「宗教」と言ってしまうとかなり広い意味になってしまうので、牧師や僧侶といった宗教者が行うカウンセリングのことを、ここでは便宜上、宗教カウンセリングと呼ぶことにします。

心理カウンセリングと宗教カウンセリング

心理カウンセリングとは、臨床心理士や公認心理師など、心理学に基づいたカウンセリングのことを言います。一般的に、単にカウンセリングと言った場合には、心理学に基づいたカウンセリングを指していると思われます。

次に宗教カウンセリングですが、こちらは特定の宗教の信仰や世界観に基づいて、カウンセリングを行います。たとえば、牧師が行うものであれば、キリスト教思想に基づいて対応することになりますし、僧侶であれば仏教思想に基づいて対応することになります。

宗教相談への対応の違い

心理カウンセリングと宗教カウンセリングの違いは、宗教に関連する相談への対応の違いで考えるとわかりやすいです。

たとえば、キリスト教を信じている人が教会での人間関係に悩んでいると相談に来たとします。

この場合、心理カウンセリングでは、クライエントがキリスト教を信じていることを尊重し、教会という場所の特殊性を考慮しながらも、人間関係について心理学に基づいてカウンセリングを進めていきます。このとき、キリスト教の教義ではどのようになっているのかといった話はカウンセラーはしません。クライエントからそのような話が出た場合には、クライエントはそれを正しいと考えているという事実を踏まえながら、心理学的に何ができるかを考えていきます。

これに対して宗教カウンセリングでは、信仰を前提として考えるので、キリスト教において教会がどういう場であるのかとか、神と人間の関係について教えたりとか、あるいは聖書を引用してアドバイスをするなどといったことになります。

かなり乱暴に言ってしまうと、心理カウンセリングでは心理学という科学に基づいたカウンセリングで、宗教カウンセリングは宗教、信仰に基づいたカウンセリングと言えるでしょう。

このことを念頭においておくと、心理カウンセリングと宗教カウンセリングの違いやできることできないことの違いがよくわかると思います。その違いについて、代表的なものをさらに詳しく見ていきましょう。

説明できる範囲が違う

これは繰り返しになるのですが、心理カウンセリングは科学的にアプローチするのに対して、宗教カウンセリングは宗教的にアプローチするので、対応できる範囲が異なってきます。

例えば、大切な人に雷が落ちたとします。この場合、心理カウンセリングでは、なぜ大切な人に雷が落ちたのかについて説明できず、大切な人に雷が落ちてしまったことへの悲しみに対してどう向き合っていくかを考えることになります。

宗教カウンセリングでは、大切な人に雷が落ちてしまった理由を、宗教的な世界観に基づいて説明することができます。たとえば、罰が当たったなどのようにです(これで納得できるかはともかくとして)。

カウンセリングの対象が違う

心理カウンセリングの対象は、カウンセリングを希望してきたその人です。つまり、生きている人がカウンセリングの対象です。

これに対して宗教カウンセリングでは、カウンセリングを希望してきた人、つまり生きている人はもちろんのこと、その場にいない人や死者も対象となります。その場にいない人に対して、祈祷や祈りを捧げたり、死者を供養したりします。

場所が違う

心理カウンセリングと宗教カウンセリングでは、カウンセリングを行う場所が異なります。

心理カウンセリングでは、基本的には公共の場で行われます。具体的には、病院などの医療機関や老人ホームなどの福祉施設、それに学校などの教育の場などがあります。

これに対して、宗教カウンセリングでは、基本的には教会やお寺などの宗教施設か、信者の自宅などの個人的な場で行われます。

環境の違いはカウンセリングの在り方にも影響を与えるでしょう。

カウンセラーの服装が違う

心理カウンセリングでは、カウンセラーは私服やスーツを着るのが一般的だと思われます。

これに対して宗教カウンセリングでは、カウンセラーは宗教的な服を着用します。たとえば、僧侶であれば袈裟、牧師であればガウン、といったようにです。服装は宗教的な権威を示すので、実証的な研究はないようですが、カウンセリングに与える影響は少なからずあるでしょう。

ここまで踏み込んで言っていいかわかりませんが、心理カウンセリングではカウンセラーとクライエントが対等の関係にあるのに対して、宗教カウンセリングでは聖職者と一般信徒という上下関係が意識されるのではないかと思います。

他機関との連携の有無

心理カウンセリングでは、カウンセリングだけでは問題解決が難しいと思われる場合には、提携する他機関と連携を取ります。たとえば、カウンセリングが難しいほどにうつ病が進行しているなら医療機関を紹介しますし、家庭環境があまりにも酷いという場合には行政機関に対応を求めることもあるでしょう。

これに対して、宗教カウンセリングの場合は、基本的には宗教的な問題として完結するので、他機関との連携はしていません。中にはしているところもあるでしょうが、あまり数は多くないだろうと思われます。

まとめ

ざっくりとですが、心理カウンセリングと宗教カウンセリングの違いについて説明してきました。どちらも優劣があるとかではなく、アプローチの仕方が異なるので、それぞれメリット・デメリットがあるのかなと思います。

ちなみに、私も宗教専門のカウンセリングをしているのですが、私の場合は、心理カウンセリングの方になります。宗教について話したいという方は利用してみてください。

カウンセリングが50分なのはどうして?なぜ料金は高いの?

カウンセリングに興味が出てきて、ホームページを見てみると、「50分10000円」などと書かれており、「1万円もするの!?ていうかどうして中途半端な50分??」と思われた方もいるのではないでしょうか。この記事では、カウンセリングに50分が多い理由と料金が高くなる理由について解説します。

50分が多い理由

実は50分に科学的な根拠はありません。なので、クリニックによって1回の時間は異なり、60分や90分で設定しているところもあります。

ただ、カウンセリングをしていると50分くらいがちょうど良いと感じるようになってきて、経験的に50分に設定しているというところは少なくないと思われます。

50分がちょうど良いと感じる理由としては、主に以下の2つを挙げることができるでしょう。

疲れにくい

カフェで友達と会話を楽しむなら何時間でも話し続けられますが、カウンセリングのように、悩みや不安、相談事を話すとなると、意外と疲れるものです。

カウンセラーとしては、(特に初回については)まとまった情報が欲しいので、できる限り時間を取って話してもらいたいのですが、長時間話してもらうとクライアントに疲れが出てきて、集中力がなくなり、カウンセリングがやりにくくなってきてしまいます。

それで、なるべる時間を取りつつもクライアントが疲れない時間というのがだいたい50分くらいになるのです(もちろん疲れやすさは人によって異なりますが)。

また、クライアントだけでなく、実はカウンセラーも疲れて集中力が途切れてしまうこともあります。カウンセラーも人間なので当然と言えば当然なのですが、長時間クライアントの話を傾聴して、必要な情報を逃さないのは大変で、50分くらいを超えるとしんどいと感じるカウンセラーは少なくないと思います。

ところで、疲れ防止なら短い時間でやればいいと思われるかもしれません。しかし、それだとクライアントが自分自身と向き合うということがやりにくくなり、話して終わりになってしまうことがあります。もちろん、話してスッキリするということもあるので、それはそれで一つの方法ではあるのですが、カウンセリングの目的として自分自身で立ち直っていくきっかけをつくることがあるので、クライアント本人が自分をしっかりと見つめることが重要になってくるのです。

スケジュール管理がしやすい

これはカウンセラー側の都合です。50分だと休憩が十分に取れたり、カウンセリング前の準備や、カウンセリング後の作業がやりやすくなります。クライアントからすると50分は中途半端に思えるかもしれませんが、カウンセラーとしては50分は単位としてわかりやすいのです。

カウンセリングの料金が高い理由

料金はクリニックによって大きく異なりますが、50分だと5000円から1万円くらいになることが多いです。おそらく、多くの人は直感的に「高い」と感じるのではないかと思います。ではなぜこのような料金設定になってしまうのでしょうか。

これも時間が関わっているように思います。

実際のカウンセリングは50分ですが、その準備やカウンセリング終了後の作業などがあり、1人に対してそれなりの時間をかけています。

そして、言うまでもなく、カウンセリングは他の人と同時に行うことはできません。小売店などでの接客であれば、同時に複数人を対応することもあるでしょうが、カウンセリングでは1つの時間枠に一人のクライアントを対応することになります。一日の時間も限られているので、一日に対応できるのはせいぜい6人から8人くらいです。

加えて言うと、カウンセリングのためには部屋の家賃や光熱料などなど、さまざまな経費がかかります。カウンセラーも自身の生活がかかっているので、しっかりと収入を確保しなければなりません。

そうなってくると、どうしても一人あたりの料金が高くなってしまうのです。

まとめ

カウンセリングの時間と料金について、簡単にではありますが、解説してみました。少しでもカウンセリングに興味を持っていただければ嬉しいです。

私も宗教専門のカウンセリングを行っています。50分1000円です。もともと宗教法人と終活支援専門の行政書士の仕事をしていて、新たに設備投資などをする必要があまりなかったことやオンラインでのみ行っていることなどから、費用を抑えることができました。時間枠はあまり多くないのですが、興味のある方はご利用ください。

宗教と科学は似てる?宗教と科学の混同

宗教と科学は対立するものであると考える人が多いかと思いますが、実際のところ、宗教と科学の区別がついていなかったり、混同してしまっている人もいるように思います。そこで、宗教と科学について、ごく簡単に触れてみます。

宗教と科学(技術)の混同

アニメやゲームなどでは、しばしば次のような物語が出てきます。ある人物が死んでしまうが、その人物のデータが実は保存されていて、そのデータを再構成し、AIとして再び登場する、というようなものです。

これはAIという最先端の科学技術を用いてはいますが、やっていることの本質は死者の復活であり、そして死者の復活は宗教の大きなテーマとされています。

覚えている人もいると思いますが、2019年の紅白歌合戦で、美空ひばりがAIとして登場するということがありました。これも同じことで、要するに美空ひばりを「復活」させているわけです。当時、言語化している人はあまりいなかったように思いますが、AI美空ひばりに違和感を覚えた人は、おそらくこの宗教性に反応されたのでしょう。

ところで、宗教の1つの役割、機能として、遠くにいる人や存在とのコミュニケーションを実現させるというものがあります。人は古来から、遠くの存在とコミュニケーションを取りたいという欲求を持っていました。典型的なところでは、死者とのコミュニケーションを挙げることができます。昔の人は、死者は死んで終わりではなく、この世ではない別の世界で生きていると考えていました。その人とコミュニケーションを取るために宗教が一つの役割を果たしていたと言えます。

そして、科学も遠くの人とのコミュニケーションを実現してきました。テレプレゼンスです。要するに、テレビやテレフォンなどの「テレ」です。科学(正確には技術と言うべきですが)は人間の欲求を叶えるものなので、科学においても遠くの人とのコミュニケーションを実現させることが重視されるのはある意味では当然と言えるでしょう。ここに宗教と科学の接点があるわけです。

もう少しわかりやすい例を出そうと思います。宗教では、遠い世界をこの世で再現しようとしてきました。たとえば、教会(特にカトリック)は神の国をこの世で表現しようとしたものですし、仏教においても立体曼荼羅で仏の世界をこの世で表現しようとしました。これも遠い世界とのコミュニケーションと言えます。そして、現代では、VRやARといったものがあります。つまり、これも、この世には本来ないものをこの世において表現しようとしているのです。

このように考えてみると、宗教と科学は必ずしも対立するものではなく、むしろ相性がいいとさえ言えるでしょう。

宗教と科学の混同がもたらすもの

別に問題がなければいいじゃないかと思われるかもしれませんが、宗教と科学が混同されることで実際に問題が生じる可能性があります。

記憶に新しいものでは原発の安全神話を指摘することができます。大地震が起きるまで、原発の安全性を批判的に捉えることができませんでした。科学を信仰してしまっていたのです。

また、身近なところではカルト問題を指摘することもできるでしょう。統一教会の件もあり、カルト問題がかなり注目されましたが、多くの新興宗教は科学的であることを強調します。宗教の名前に「科学」が入っているものをいくつか挙げることができる人もいるのではないでしょうか。多くの場合、そのような宗教は、科学と言いつつもやっていることは科学ではありません。しかし、それに気づける人は少ないのです。

問い続けることが重要

このように、宗教と科学は混同されることで実際に問題を引き起こします。このようなことを避けるためには、宗教とはなにか、科学とはなにか、ということを問い続けることが重要です。

普通の宗教とカルト宗教の違いはなに?カルトの特徴は?

普通の宗教(そもそもそんなものがあるのかという批判も成り立ちますが)とカルト宗教の違いについて、この記事では考えてみたいと思います。

宗教学的にはなんとも言えない

宗教学にもカルトという用語はあるのですが、一般的に使われるカルトとは意味内容が異なります。宗教学でのカルトには悪い意味はなくて、中立的な言葉であり、今では伝統宗教とされているようなキリスト教や仏教もカルトの時代がありました。

また、一般的な悪い意味でのカルトで考えても、伝統宗教とされているものの中にもカルト的な要素はあって、普通の宗教とカルト宗教を明確に区別することはできません。

しかしながら、キリスト教や仏教といった普通の宗教、伝統宗教とカルト宗教を同じだと言ってしまうのには違和感を覚えます。たしかに何かが違うように思えます。この違いについて、まだ統一的な意見はないのですが、あくまでも私の意見として以下に述べてみたいと思います。

思考の有無

これを言うとたまに怒る人もいるので気をつけて書かないといけないのですが、私は、宗教は、教典ではなくて概念であると思っています。つまり、教典そのものが重要なのではなくて、教典が指し示そうとしているものが宗教の本質だということです。

例えるならば、月を指さして、これを見よ、と言っているような感じです。月が宗教の本質で、指が教典だと思ってください。「これを見よ」というのは「月を見よ」という意味であって、「指を見よ」という意味ではありません。つまり、教典を見るのではなく、教典が指し示そうとしているところのものを見なければならないのです。

宗教の本質となるものは目には見えないものです。そして、教典はそれを言葉で表現しようとしています。なので、教典は難解なものになりがちで、何を言おうとしているのだろう?という疑問や起き、思考が生まれます。

さらに、教典には書いた人がいるわけですが、その人が生きた時代背景や土地などの影響を受けているので、現代において教典を読もうとすると、現代での状況を考慮して、適宜読み替えていくことが必要になってきます。

つまり、教典は思考を促すのです。そして、絶えず思考することによって、徐々に宗教の本質、教典が指し示そうとしているものがイメージできるようになってくる、これが宗教は概念であるという意味です。

先ほど、教典そのものは重要ではないと書きましたが、決して教典に価値がないと言っているのではありません。宗教の本質について触れているのは主に教典なので、宗教の本質に触れたいのならば教典を経由しなければならず、その意味で教典は不可欠なものです。ですが、教典そのものに囚われていると本質にはたどり着けません。ここを誤解しないでほしいのです。

そして、普通の宗教とカルト宗教の違いはこの点にあると私は考えています。つまり、普通の宗教は教典を通して本質を見ようとするので思考が促されるのに対して、カルト宗教は教典そのものを見ているので思考が生まれないのです。

カルト宗教の思想的な特徴

カルト宗教には思考を促す機能がないと考えると、カルト宗教の特徴も理解しやすくなってくると思います。

教祖や教典を絶対視する

教祖様がこう言っているから正しい、教典にはこのように書いてあるから正しい、などのように教祖や教典を絶対視します。なぜ教祖様はこのような発言をしたのだろう、その意味するところは何なのだろう、なぜ教典にはこのように書かれているのだろう、といったことを吟味することがありません。教祖様はこう言っている、教典にはこう書かれている、の一点張りになりがちです。

二元論に陥る

善悪や敵味方などのように、明確に分けようとします。早い話が、教祖様や教典の教えを守っているのが善で、守っていないのが悪です。中間がありません。

終末論に傾倒する

終末論は要するに世界の終わりだと考えてください(終末論のついて詳細について触れるとかなり難しい話になるので止めておこうと思います)。

この世界は自分以外にもさまざまなものがあり、複雑なものによって成り立っているのですが、そこまで思考が至らないので、自分と世界が直結してしまい、自分のあり方によって世界の在り方が変わってしまうと考えてしまいます。

マンガやアニメで言うところのセカイ系に近いでしょうか。たとえば、エヴァンゲリオンでは、シンジ君が頑張らないと世界が崩壊することになりますが、カルト宗教も似たようなところがあります。

カルト宗教の表面的な特徴

思想的な特徴がわかるとカルト宗教の表面的な特徴も理解しやすくなると思います。

積極的に布教する

個人的には積極的な布教そのものが悪いとは思っていないのですが、カルト宗教は積極的に布教活動をする傾向があります。なぜなら自分たちは善であり、また多くの人を善の側に呼びたいと考えるからです。自分たちが誰かを善の側に連れてこなければ、その人は悪になってしまいます。そこには救いたいという善意があるのでしょう。

ただ、気持ちが強すぎるのか、強引な布教に陥ることもあります。たとえば、直接的に宗教を紹介しても拒否されるのは目に見えているので、最初は楽しそうなサークル活動などの勧誘としてアプローチし、自分たちが管理する施設などに誘い、そこで「実はいいものがあって」などと言って宗教の説明を始めるなどです。

場合によって手段を選ばず、違法な方法を取ることもあります。なぜなら、自分たちは善の側にいるから、善のトップである教祖が言っているから、です。

身内で固まる

信者は善で、それ以外は悪なので、善である身内だけで固まる傾向があります。しかし、上にも書いたように、積極的に布教をするので、必ずしも引きこもるわけではありません。

外部からの情報を遮断する

外部からの情報は悪の情報であり、取り入れるべきものではないと考えられるため、外部からの情報を遮断する傾向があります。

極端な献金やお布施がある

考え方にはいろいろなパターンがあるでしょうが、悪の側にいる大切な人を救うには献金が必要であるとか、善である宗教に貢献するという意味で献金するとか、一般的な社会的財産は悪に属するから捨てるという意味で献金するなどがあると思います。いずれにせよ、二元論的な考え方が背景あるように思います。

規則が厳しい

世俗的なものを悪とみなす傾向があるため、男女交際やお金儲け(要するに仕事)などを禁じていたり、制限を加えたりしていることがあります。

罰がある

悪から善に来ることは歓迎されるので、宗教の外部に対しては優しかったりするのですが、宗教内部にいる人(つまり善にいる人)が悪に興味を持つというのはあってはならないことなので、規則を破った場合には罰を与えられることがあります。しばしば虐待などで社会問題に発展します。

まとめ

カルト宗教の特徴を挙げていくときりがないので、このあたりで終えようと思います。

ここまで書いてきて最後にこんなことを書くのもどうかと思いますが、普通の宗教とカルト宗教の区別は難しいです。普通の宗教だったのに、急に様子がおかしくなってカルト宗教になってしまったという例もあります。何がそうさせるのかはよくわからないのですが、でも、何か問題を抱えていて、余裕がなくなってくると、思考や視野が狭まっていくのかもしれません。

もしそうならば、普段は宗教と全然関係がない生活をしている人でも、急にカルト宗教にハマってしまうということもあるでしょうから、自分は関係ないと考えるのではなく、気をつける必要があるのかなと思います。