宗教を信じるメリットは何か?宗教の機能的な側面

以前、私がキリスト教を信じるようになった理由をまとめた記事を書きました(なぜ宗教を信じるのか―私がクリスチャンになった理由― - 0024の個人ブログ)。ただ、読者さんからすると、そういうのではなくて、宗教の必要性のようなところを知りたいようです。というわけで、このあたりについて考えてみます。

宗教は人にとって不可欠なもの

おそらくですけど、宗教の必要性を知りたい人は、宗教は非合理的なもので、まともな人間であれば信じる必要のないものであるはずだ、という前提があるのだろうと思います。そのうえで、なぜわざわざ宗教を信じるのか、その必要性は何なのか、宗教を信じるメリットがあるとするならば、それは何なのか、というところが気になるのでしょう。つまり、宗教を機能的な側面から理解しようとしているのだと私には思われます。

ですが、宗教は、機能的な側面から要不要を考えられるようなものではありません。宗教を信じていないと考えている人でも、実は意識をしていないだけで、宗教的営みを行っているはずです。例えば、宗教は不要だと考える人でも、誰か大切な人が亡くなったらお葬式をあげるのではないでしょうか。最近ではお葬式の規模は縮小傾向にあるものの、それでもお骨をお仏壇やお墓に埋めたりするのが普通だと思います。ですが、宗教は不要だと言うのならば、人が死んだら供養など何もせずに生ゴミとして出してしまっていいことになります。法的に問題ということもありますが、それ以前に、それはやったらいけないだろ、という感覚があるのではないでしょうか。宗教とはそういうものなのです。(日本人は無宗教?なぜ無宗教と言われる? - 0024の個人ブログ

そうは言っても、やはり気になる人からすれば、なぜわざわざ宗教を信じようとするのかわからない、というのが本音なのだろうと思います。そこで、やや無理やりではありますが、宗教を機能的な側面から捉えて、宗教の必要性みたいなところ、つまり宗教を信じるメリットを、私なりに、以下にまとめてみようと思います。学問的な話ではなく、あくまでも私の意見です。

個人性を担保できる

個人というと何でも好き勝手していいみたいなイメージがありますが、そうではなくて、ここでいう個人とは、私人と公人の間としての個人です。

これについては変な説明をするよりも憲法を素材として考えたほうがわかりやすいかと思います。憲法でもっとも重要とされているのは個人で、その個人を見る角度によって、学校でよく習う三大原則、つまり国民主権、平和主義、基本的人権の尊重が出てきます。このうち、一人の人間に注目した場合に出てくるのが基本的人権の尊重であり、憲法11条に記されています。引用します。

国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。 この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

憲法は、基本的人権は与えられると書いていますが、では、誰から与えられるのでしょうか。これはキリスト教における神です。神が、個人としての人権を与えると考えられています。もちろん日本ではまた事情が変わってくるのですけど、法律系の資格予備校として有名な伊藤塾では、人権を与える主体を「天」と表現していました。なかなか興味深い表現ですが、やはり宗教的な表現を使わないと説明できないようです。

主観と客観の分離を防げる

世界ではさまざまな現象が起きていて、それは単に生じているのであり、そこに意味はないと思われますが、人間はその現象を主観を通して捉えます。なので、単なる現象に意味が与えられ、人間はそれに対してさまざまな反応を示します。

たとえば、犬が死んだとしましょう。その犬の飼い主は悲しみのあまり泣いてしまうかもしれません。あるいは、ショックが大きくて、学校や会社に行けなくなり、引きこもってしまうこともあるでしょう。犬はただの犬であり、その犬が動かなくなった(死をどう定義するか難しいところですが)という現象が生じただけです。ですが、飼い主にとっては、ただの犬ではなく大切な犬であり、その犬が死ぬというのは重大なことであり、実際に泣いたり、引きこもったりするという反応を示しているわけです。

しかし、その犬の死に対して、宗教を通して何らかの意味を与えることによって、また日常に戻ることもできるでしょう。たとえば、犬は死んだのではなく、遠くの世界に旅立っただけであり、またいつか再開ができる、そのときに自分の元気な姿を見せられるよう、また日常に戻ろう、などのようにです。

(かなりひどい表現になってしまいましたが、宗教を考えないというのはそういうことです。だから宗教は不要だというのは安易に言うものではないと私は考えます)

有限の無限化を防げる

これも先程の主観と客観の分離を防げることと関係するのですが、若干視点が異なるので、分けて書くことにします。

ここでのキーワードは虚構です。虚構というと悪いイメージがありますが、ここではそういう意味ではなく、ないものをあるとみなすことをいいます。

たとえば、虚構の代表的なものに法律があります。法律は形のあるものではありません。一応、六法に書いてあるものなので、本や書類という形を持っていると考えることもできますが、世界中から六法や法律が書いてある書類が消滅したとしても、法律そのものがなくなることはないでしょう。そして、この形のない法律をあるものとして考え、実際に生活をしています。これが虚構です。

補足すると、虚構の対概念として現実がありますが、虚構と現実は明確に区別することができません。たとえば、法律そのものは虚構ですが、法律に従って実際に生活をしていることは現実です。

前置きが長くなりましたが、虚構は人間が生み出すものであり、人間が有限である以上、虚構もまた有限です。しかしながら、人間は本来有限であるはずのものを絶対化し、無限なものへと引き上げようとします。たとえば、お金は虚構です。本来、お金は取引を簡略化させる道具に過ぎないわけですが、行動原理がお金のためになってしまうことがしばしば起こります。ある意味、お金教の信者とも言えるかもしれません。

宗教を信じていると、この有限であるはずのものを対象化することができ、虚構と適切な距離を保つことができます。

ところで、神は虚構ではないのかという指摘もできるでしょう。これはある意味、正しいです。ですが、キリスト教に関して言えば、聖書は、神のイメージの絶対化を避けるように作られています。イメージの絶対化を偶像崇拝といいますが、神の偶像化を信者にさせないようにしているのです。もう少し噛み砕いて言うと、私が信じる神とはこういうものであって、この神の姿こそが絶対的に正しいのだ(神の偶像化)、とは言わせないのです。その意味で、クリスチャンは神を盲信しているわけではありません。他方、カルト宗教と言われるようなところでは、信仰対象の絶対化を行い、たとえば、ただの人間であるはずの教祖を、無限なものへと偶像化させるとも言えるでしょう。

言い方を変えると、人間は有限なものを無限なものにしたいという欲求あるいは願望を持っているわけですが、宗教はそれへのワクチンであると言えるかもしれません。