日本人は無宗教?なぜ無宗教と言われる?

一般的に日本人は無宗教だと言われますが、本当にそうなのでしょうか。また、なぜ無宗教と言われるのでしょうか。この点について考えてみます。

実は宗教に熱心な日本人

日本で何かしらの宗教を信じているのは1〜2割ほどで、9割近くが無宗教なのだそうです。正確な統計情報はともかくとして、たしかにほとんどの人は無宗教として生活をしているように思えます。

他方で、日本人の大部分は、お正月には初詣で神社へ参拝し、昨年のお礼や新しい一年の安全などのお願い事をします。夏はお盆で都会に出ている人も地元に帰省し、お墓参りなどをして、また夏祭りを楽しむ人も多いでしょう。一年の終わりにはクリスマスがあり、カップルの微笑ましい様子が見られます。

大切な人が亡くなればお坊さんを呼んでお葬式を挙げ、結婚式は教会で挙げて神の前で永遠の愛を誓い、そして子供が生まれたら神社でお宮参りをします。

特別な日でなくても、毎朝占いで今日の運勢を確認したり、急な腹痛に襲われ神仏に祈りを捧げたり、あるいはアニメやマンガで超常的な能力を持った人物が戦っているのを見て楽しんだりしています。

以上のようなことを考えると、日本人は無宗教というよりも、むしろ宗教に熱心に取り組んでいるように思えます。

もしかすると、日本人は宗教的なことをしているかもしれないけどイスラムのような宗教を信じている人よりかはそこまで熱心ではないという反論もあるでしょう。たしかに、イスラムではカーバ神殿で黒い箱のようなものの周りをぐるぐると多くの人が回るのが有名で、その写真や映像を見たことがある人も多いと思います。統計では1年間に約200万人から300万人がカーバ神殿にやってくるそうで、たしかにすごい数です。

ところで、日本にカーバ神殿はありませんが、宗教施設に行くという意味では神社への参拝は近いでしょう。千本鳥居で有名な京都の稲荷伏見大社では三が日だけで200万人から300万人が訪れます。カーバ神殿では1年で200万人から300万人なのに対して、伏見稲荷大社ではたったの3日間で同じだけの人が集まるのです。さらに言うと、神社は伏見稲荷大社以外にも数多くあるわけですが、日本全国の神社に集まる人の数は三が日だけで7000万人から8000万人と言われており、年間になるともはや測定できません。

このように数字で見ると、日本人が宗教に熱心であることがよくわかるのではないでしょうか。

日本人が無宗教と言うのはなぜ?

これには明確な理由があります。いろいろな背景があり、遡ろうと思えばかなり遡れてしまうのですが、直接的な原因となったのは、明治政府が打ち立てた神社非宗教論です。

神社非宗教論というのは読んで字の如く、神社は宗教ではないという主張のことです。なぜ明治政府がこのような主張をしなければならなかったのかというと、当時力を持っていた西欧列強と対等になるためです。細かいことは省略しますが、ざっくり言うと、日本が西欧列強と肩を並べるためには信教の自由を認めなけれなりませんでした。信教の自由を認める、つまり、すべての宗教は等価値であると認めると、天皇制を中心とした国家統一ができなくなります。ですので、どの宗教も価値は同じだと言いつつも、神社の特殊性を守らなければなりませんでした。それを理論化したが神社非宗教論なのです。

神社は宗教ではなく日本の文化である。仏教でもキリスト教でも信仰するのは構わないが、日本人であるならば日本の文化である神社に行け、とそのように明治政府は主張しました。仏教でもキリスト教でも他の宗教でも信じるのは構わないので、対外的には信教の自由は守られているように見えます。しかし、対内的には、日本の文化を害さない限りにおいて他の宗教の信仰を認めるという形を取っていたので、実質的には神社が宗教の上位に置かれるという構図になってしまいました。

現在の日本では、言うまでもなく、神社非宗教論の立場を取ってはいません。神社の大部分が神社本庁という宗教法人に属していることからも明らかでしょう。しかし、神社非宗教論ではないにしても、この影響が現在にまで続いているのです。

日本の宗教は本当に雑多?

さて、ここまでの説明で、鋭い人はこう思われたかもしれません。たしかに神社が文化として認識され、宗教と呼ばれないことはわかった。でも、日本にはもう一つ、仏教がある。神社非宗教論では仏教まで説明できないのでは?

これを説明するためには日本の核となる宗教観に触れなければなりません。日本の宗教はしばしば雑多だと言われます。最初の方にも軽く触れましたが、子供が生まれたら神社に行くし、人が死んだら仏式で葬式をするし、結婚式は教会でキリスト教式で行うなど、様々な宗教で入り乱れているように見えます。しかし、実はそんな日本にも体系的な宗教観があるのです。それが、生と死の循環です。

人の一生を簡単に想像していただきたいのですが、生まれた直後にはお宮参りや七五三などの神社で行う行事が集中しており、年をとるについれて行事が少なくなり、定期的に祭りを行うようになります。そして死ぬと葬式があり、忌日法要、月忌法要と死んだ瞬間に仏教系の行事が集中して、徐々にその間隔が空いていきます。

つまり、生と死が循環しており、生まれたばかりの子供は死の世界に近いから多く行事を通して生の世界に慣れさせて、そして死者は生の世界に近いから多くの行事を通して死の世界に慣れさせる、という形を取っています。

この生と死の循環という考え方はあまり現代では聞かないのですが、地方に行くと残っているところもあります。また、想像しやすいものとしては、ジブリ作品のトトロを挙げることができるでしょう。サツキやメイにだけトトロやネコバスが見れて大人に見れないのは、トトロやネコバスが向こうの世界の住人であり、子供であるサツキやメイは向こうの世界に近く、大人は遠いからです。(ジブリ作品は日本の宗教観をよく表した優れた作品だと思います。特にもののけ姫はすごいです)

話を戻すと、もともと基盤に生と死の循環という考え方があるわけです。そして、最初は神道的に生と死を扱っていたのですが、死に対しては十分な儀式を持っていませんでした。そこで、仏教が日本に来たときに、仏教(とりわけ真言宗)の儀式を借りてきたのです。その意味では、日本では神社と仏教を信じているというよりも、神社と仏教の儀式を借りていると言った方が適切かもしれません。

ついでにキリスト教についても触れておきたいと思います。日本では結婚式をキリスト教式で行うことが少なくありません。そして、クリスマスやバレンタインが特に顕著でしょう。これらに共通する要素として恋愛を指摘することができます。これは私の想像なのですが、おそらくは、上記のような生と死の循環という伝統的な考え方が現代になって通用しなくなり、それを埋め合わせるように純愛、恋愛が出てきたのではないかと思っています(ちなみに恋愛は宗教学の研究対象になることがあります)。そして、その表現形式としてキリスト教の儀式を借りているのではないでしょうか。その意味では、クリスマスなどをやっているからといって、キリスト教を信じているわけではないだろうと思います。

まとめ

かなりざっくりとした説明なのでわかりにくいところも多いと思いますが、なんとか書いてみました。ぶっちゃけ、本一冊じゃ済まないくらいに説明が必要なテーマだと思うので、詳しい人が読んだら怒るんじゃないかとか思わないでもないのですけど、いろいろな背景があるんだなくらいに思っていただければ嬉しいです。