宗教に対するよくある意見や疑問とそれへの応答

いきなり面と向かって宗教批判をしてくる人は見たことがないのですが、私は宗教について勉強をしているので、「宗教について何か疑問とかありますか?」みたいに問いかけると、けっこう率直に疑問をぶつけてくれる人がいて、個人的には嬉しいです。そこで、よくある宗教への意見や疑問、批判を挙げて、それへの応答を簡単ではありますが、試みてみます。私の応答に対し、「それは違うのでは?」と感じることがあればコメント欄などでさらに反論していただけると嬉しいです。

「神って本当にいるの?」

キリスト教やイスラームなどの一神教の神の話をすると、結論的にはわからないということになっています。

神の存在証明にはいろいろなものがあるように思えますが、実は類型としては3つしかありません。そして、そのいずれもが誤っていることを哲学者のカントが証明しました。従って、神が存在することを証明することはできません。

しかし、神の存在証明ができないことが直ちに神が存在しないことを意味するわけではありませんので、神が存在しないと主張したいなら、そのことの証明が必要になります。そこで、いくつかの偉い人(フォイエルバッハやフロイトなどが有名です)がそれを試みたのですが、今のところ成功していません。

神が存在することの証明も、神が存在しないことの証明も未だないので、神が存在するかどうかはわからないということになります。ちなみに、わからない以上、神が存在するという主張は信仰ですが、神は存在しないという主張も信仰です。立場は違っても、実は信仰という点で共通しているのは面白いですね。

「教典は人が作ったものなのに、それに感動しているのは変だと思う」

実際には聖書とか何かしらの仏典とかを指して批判する人が多い印象ですが、ここではひっくるめて「教典」としました。

変だと思う、とのことなのですが、人が作ったものに感動するのは誰でも経験のあることだと思います。小説やマンガは人が作ったものですが、作品に触れて感動したことのある人はいるでしょうし、何なら、感動しなかったら人間じゃないみたいな扱いを受けることもあるのではないでしょうか。

また、単に感動して終わりではなく、たとえば医療系の作品に触れて、医者や看護師などの職業を選択した人もいます。人が作ったものが実際に人生に影響を与えるということはそんなに珍しいことではありません。

そのように考えると、教典を特別視する必要はないように思えてきます。

「宗教は戦争を起こしたりするから危険だと思う」

宗教は危険だという意見はまったくその通りだと私も思います。ただ、考えなければならないのは、宗教はどの程度危険なのかという点でしょう。宗教は、人間が危険であるのと同程度に危険です。宗教も人間の営みだからです。その意味では、宗教は、人間が平和的であるのと同程度に平和的だとも言えます。

ところで、宗教は戦争を起こすという点については必ずしも正しくありません。歴史的にも、宗教を直接の原因とする戦争はゼロではないものの少ないです。宗教が関連しているように見える戦争であっても、実際の原因は、お金がない、食べ物がない、生活ができない、といったものが大半だと思われます。そういった具体的な問題に、宗教は結びつきやすいようです。

しかしながら、繰り返しになりますが、宗教は平和的でもあり、問題に対して平和的な解決を図る場合もあります。宗教には二面性があるのです。この二面性をどう考えるかはなかなか難しいところですね。

「一神教は排他的で暴力的だが多神教は寛容で平和的だと思う」

これも戦争に関連してよくある意見です。一神教関連の戦争が多神教よりも多いのは統計的にも間違いありません。しかし、これを理由に多神教の方が平和的だと言うのはちょっと無理があります。というのも、多神教が関係する争いも一神教ほどではないものの、よくあるからです。

それから、多神教が寛容だという意見についても微妙なところがあって、たとえば日本の場合は条件付きの寛容と言えるかもしれません。別にいろいろな宗教があってもいいと言いつつも、何か影響がありそうなら強い反発が起きます。

あるいは、寛容ではなく無関心であるとも言えるでしょう。寛容と無関心はまったく異なるものですが、表面的には同じに見えます。伊勢神宮でイスラームの礼拝所の設置計画が出て撤回されるということがありましたが、イスラームに対して、また神社に対しても無関心だからこそ計画できたと批判する宗教者もいたようです。

「なんで宗教みたいな非科学的なものがあるのか理解できない」

いろいろな答え方ができるかなとは思うのですが、一番大きいところでは科学だけで物事を説明できるわけではないからです。

たとえば、自分や大切な人に雷が落ちたとしましょう。雷はなぜ発生するのか、雷が落ちるのはどうしてなのかは科学的に説明できます。しかし、雷が自分や大切な人に落ちた理由については科学では説明することはできず、強いて言うならば、偶然である、ということになります。多くの人は偶然落ちたでは納得できないでしょう。どうして自分に、どうして大切なあの人に、と苦悩するものです。

このように、自分や自分に関連することについて宗教は説明をすることができます。たとえば、罰がくだった、などのようにです。もちろん、宗教による説明が正しいとは限りません。ですが、このような説明を求めるのが人間なのだ、と言えるのではないでしょうか。

「宗教なんて信じてないで現実を見たほうがいいと思う」

これはちょっと説明が難しくなるのですが、現実の対概念として虚構があります。そして、現実と虚構は区別することができません。なので、現実だけを見る、というのは無理がある、という答えになるかな、と思います。

虚構というとウソのような悪いイメージが一般にはありますが、実際の意味としては、ないものをあるものと考えることです。例えば、虚構の代表的なものに法律があります。法律は形のあるものとして存在していませんが、みんな法律をあるものとして、法律に従って生きています。法律は虚構ですが、みんな法律に従って生きている、つまり現実に作用しているという意味で、法律は現実です。ここに明確な区別はありません。

そして、同じように、神や仏といったものも虚構です。そして、その神や仏を祀るところとしての神社やお寺といった宗教施設があったり、そこに出入りする人がいるなど、現実として作用しています。その意味で、神や仏といったものは現実です。

もっと身近な話をすると、日本の食べ物はわかりやすいでしょう。例えば、きつねうどんがあります。うどんの上に油揚げが乗せられたものですが、きつねが乗っているわけではありません。私達は無自覚のうちに自然とこのような認知をしているのです。

「宗教は精神的に弱い人がするものだと思う」

これは半分当たっているけど、半分間違っているという感じかなと思います。

たしかに精神的に弱い人が宗教にハマるというのはあります。しかし、他方で、滝に打たれて修行する人や、比叡山で行われる千日回峰行などを想像すると、精神的に強い人もいます。

これも先ほど指摘した宗教の二面性、両義性と言えるでしょう。宗教は人間の営みなので、弱い人も強い人もいるのが当然だと思います。

追記するかも

また何か面白いのがあったら追記するかもしれません。とりあえず、これくらいにしておこうと思います。