なぜ宗教を信じるのか―私がクリスチャンになった理由―

現代では宗教は馬鹿らしいものであり、宗教を信じている人はどこかおかしいのではないか、と考えられることが多いのではないかと思います。私も以前はそう思っていました。しかし、今ではキリスト教という宗教を信じています。宗教と一言で言っても仏教や神道、キリスト教、イスラームなど様々なものがありますが、私は、信じる理由は実は同じなのではないかと思っています。そこで、私がキリスト教を信じてクリスチャンになった理由を通して、なぜ現代において宗教を信じる人がいるのかを考えてみます。私が宗教を信じる人々を代表するわけではありませんが、宗教について考えるきっかけになれば嬉しいです。ブログは初めてですので、自己紹介も兼ねてこの記事を書いてみます。

クリスチャンになった直接的なきっかけ

いろいろな背景があるのですが、それは後ほど書くこととして、私がクリスチャンになった直接的なきっかけとなったのは、NHKこころの時代で基督教独立学園高校前校長の安積先生のお話を聞いたことです。

放送はかなり前のことですので、正確に覚えていないところもあるのですけど、3つの課題についてお話されていました。3つの課題とは以下のようなものです。

  1. 自分が恐れるものを可能な限り紙に書き出してみる
  2. 書き出したものの中から、これはどうしようもないというものを3つ選ぶ
  3. その3つを克服するために、今の自分に不足しているもの、必要なものを考える

1と2については、私は日頃から考えていたことだったので、すぐに答えることができました。1については書きませんが、2については、私の場合は、死、災害、人でした。この中でもとりわけ死が怖かったです。

そして、3についても実は答えを持っていました。それが芸術です。芸術家は自身が抱える苦悩と向き合い、そして作品を通して苦悩と真剣に格闘します。芸術と出会う前の私はただ苦悩することしかできなかったのですが、苦悩と格闘できるということ、そして真剣に格闘している人がいるという事実がとても嬉しかったのです。しかし、安積先生の話には続きがあり、それを聞いて芸術とは答えられなくなりました。

安積先生は、人間は「中途半端なところ」に留まると言います。自分が抱える苦悩と向き合うとつらい。そして、そのつらさには終わりがないように思える。だから徹底的に苦悩と向き合って、突き抜けてどん底まで行ってみることをせずに、途中で向き合うことをやめて「中途半端なところ」に留まってしまうのです。

これを聞いたとき、私は、漫画みたいな表現ですが、ぎくりとしました。というのも、私自身思い当たるところがあったからです。つまり、私は芸術を通して死と向き合っていたのではなく、芸術に逃げていたにすぎないということです。芸術は私にとって、まさに「中途半端なところ」でした。

こうなると、芸術を抜きにして、再び死と向き合わなければなりません。そのとき、自分にはどうすることもできないことに気づかされました。同時に、神に頼っている自分にも気づきました。これは信仰と言わざるを得ない。そして受洗(クリスチャンになるための儀式)しようと思ったのです。

つまり、なぜ宗教を信じるのかというと、自己の有限性の自覚です。自分には限界があるのだということを真に理解すると、「超越者」とでも言うべきもの、それが仏様なのか神様なのかそれはわかりませんが、とにかくそういうものに頼るようになるのだと私は思います。

なぜキリスト教だったのか

自己の有限性を自覚したとき、キリスト教の神様に、イエス・キリストに、私は頼っていました。ではなぜキリスト教だったのでしょうか。

安積先生の話に戻ると、「中途半端なところ」を突き抜けて、本当にどん底にまで行ったとき、先生は「光」が見えると仰っていました。私の場合はこの「光」がキリスト教だったのですけども、仏教やイスラームや神道などである可能性もあったでしょうし、何なら宗教である必要もなくて、芸術に再び目覚めるといったこともあり得たと思います。なぜ私の場合はキリスト教だったのか、私の生い立ちに触れながら考えてみます。

先ほど私は死が怖いと書きましたが、最初にそれを意識したのは中学生の頃でした。特に何かきっかけがあったわけではありませんが、たぶんそういうことを考える時期だったのでしょう。多くの人は小学生の高学年から中学生くらいにかけて、なぜ生きるのか、死とは何かといったことについて考えるものの、すぐに忘れて考えなくなるようです。しかし、私は考え続けてしまいました。誤解しないでいただきたいのですが、私は死にたかったわけではありません。そうではなくて、死が怖いのと、いずれは死ぬのがわかっているのに生まれたこと、これが納得できず、生に対して積極的になれていない状態でした。

そんな中学生の頃に、学校の正門前で新約聖書が配られていたことがあり、一度手にして、信じて救われるならと読んでみたこともありましたが、信じたところで何かが変わるわけではなく、くだらないと聖書から距離をとったことがありました。

そんな感じでずっとモヤモヤしていたのですが、高校生のとき、(ベタでちょっと恥ずかしいのですが)ゴッホに触れ感銘を受けました。それ以前まで、芸術は金持ちの道楽であり自分とは関係のないものと思っていたのですが、芸術家も一人の人間であり、苦悩する人間であるということ、そして単に苦悩するだけでなく、その苦悩に作品を通して格闘しているということ、それを知ったときに芸術が自分のものになったように思え、ただただ嬉しかったです。ゴッホに限らず、西洋の絵画やクラシック音楽などに触れるようになりました。

ところで、西洋の芸術にはキリスト教がかなり出てきます。ゴッホも、直接的な宗教画は多くありませんが、農民を描いたり、風景画の中に教会を描いたり、キリスト教を思わせるものが出てきます。私は西洋の芸術は素晴らしいと思いつつも、キリスト教がどうしても理解できませんでした。聖書に書いてあることをどうして信じられるのか、そして聖書の内容を信じることがどうして作品制作の活力となるのか、それがまったく理解できなかったのです。

なので私は、進学先として、龍谷大学文学部真宗学科を選びました。真宗とキリスト教は似ています。そして、私の実家は真宗の檀家で、おばあちゃんからは「なむなむ言っとけ」と言われて育ったので、真宗なら感覚的にわかるところがありました。なので、真宗からキリスト教へアプローチをすれば何かわかるかもしれないと考えたわけです。卒論は親鸞とパウロの比較思想研究で書きましたが、結局キリスト教のことはよくわかりませんでした。

それでも芸術は好きで、就職先は、芸術ではないけど近い分野で、また東京でしたから毎週のように美術館に通っていました。美術館に行っている間は生きていることが実感できる、とまで言ったら大げさですが、とても充実していました。そんな中で安積先生の話を聞くことになるわけです。今までずっと芸術だったのに、その芸術に逃げていただけだったことに気付かされ、どうしようもなくなったのでした。

さて、振り返ってみると、私の場合は最初からキリスト教だったのだなと感じます。死について考え始めた頃から聖書が近くにあり、また聖書を手放すものの、真宗学や芸術を通してキリスト教に触れ、自分のどん底を見たときにキリスト教が出てきた、ということだと思います。

ところで、私はかなり疑い深い人間なので、自分のどん底を見て神に頼った自分に気づいた後も、それでも神が本当にいるかはわからないと考えました。実際、神学において神が実在するかどうかはわからないということになっています。ですが、私が本当のどん底で神に頼ったのは間違いのないことです。よく言われるように、宗教が心の作用なのだとしても、本当の危機的な状況で神が出てきたということは、神は私にとっては重要なものだと思うのです。だったら、それにかけてみようと思いました。神が本当に存在するのかはわからないけど、でも、存在すると仮定して生きてみよう、そう思いました。

これから

そう決意してから、私は同志社大学大学院神学研究科に進学しました。キリスト教をちゃんと学びたいと思ったことと、龍谷大学で学んだ真宗、仏教が間違っているように思えなかったので、自身の信仰と他宗教との関係をどう考えればいいのか研究したかったからです。修論は宗教間対話について書きました。

そして、今では、行政書士として宗教法人や墓地、終活をメインに仕事をしています。様々な意見はありますが、いろいろな宗教と関わることで、宗教と宗教の関係を考えていきたいと思っています。また、宗教の偉い人だけでなく、普通の信者の方とも関わりたいと思い、終活も業務内容に組み込みました。さらに終活に関しては、私の経験から、終わりを考えることによって生が変わってくると思っていますので、単に終わりを考えるだけでなく、さらに踏み込んで生き方を考えられるような、そういうサービスを心がけたいと思っています。