普通の宗教とカルト宗教の違いはなに?カルトの特徴は?

普通の宗教(そもそもそんなものがあるのかという批判も成り立ちますが)とカルト宗教の違いについて、この記事では考えてみたいと思います。

宗教学的にはなんとも言えない

宗教学にもカルトという用語はあるのですが、一般的に使われるカルトとは意味内容が異なります。宗教学でのカルトには悪い意味はなくて、中立的な言葉であり、今では伝統宗教とされているようなキリスト教や仏教もカルトの時代がありました。

また、一般的な悪い意味でのカルトで考えても、伝統宗教とされているものの中にもカルト的な要素はあって、普通の宗教とカルト宗教を明確に区別することはできません。

しかしながら、キリスト教や仏教といった普通の宗教、伝統宗教とカルト宗教を同じだと言ってしまうのには違和感を覚えます。たしかに何かが違うように思えます。この違いについて、まだ統一的な意見はないのですが、あくまでも私の意見として以下に述べてみたいと思います。

思考の有無

これを言うとたまに怒る人もいるので気をつけて書かないといけないのですが、私は、宗教は、教典ではなくて概念であると思っています。つまり、教典そのものが重要なのではなくて、教典が指し示そうとしているものが宗教の本質だということです。

例えるならば、月を指さして、これを見よ、と言っているような感じです。月が宗教の本質で、指が教典だと思ってください。「これを見よ」というのは「月を見よ」という意味であって、「指を見よ」という意味ではありません。つまり、教典を見るのではなく、教典が指し示そうとしているところのものを見なければならないのです。

宗教の本質となるものは目には見えないものです。そして、教典はそれを言葉で表現しようとしています。なので、教典は難解なものになりがちで、何を言おうとしているのだろう?という疑問や起き、思考が生まれます。

さらに、教典には書いた人がいるわけですが、その人が生きた時代背景や土地などの影響を受けているので、現代において教典を読もうとすると、現代での状況を考慮して、適宜読み替えていくことが必要になってきます。

つまり、教典は思考を促すのです。そして、絶えず思考することによって、徐々に宗教の本質、教典が指し示そうとしているものがイメージできるようになってくる、これが宗教は概念であるという意味です。

先ほど、教典そのものは重要ではないと書きましたが、決して教典に価値がないと言っているのではありません。宗教の本質について触れているのは主に教典なので、宗教の本質に触れたいのならば教典を経由しなければならず、その意味で教典は不可欠なものです。ですが、教典そのものに囚われていると本質にはたどり着けません。ここを誤解しないでほしいのです。

そして、普通の宗教とカルト宗教の違いはこの点にあると私は考えています。つまり、普通の宗教は教典を通して本質を見ようとするので思考が促されるのに対して、カルト宗教は教典そのものを見ているので思考が生まれないのです。

カルト宗教の思想的な特徴

カルト宗教には思考を促す機能がないと考えると、カルト宗教の特徴も理解しやすくなってくると思います。

教祖や教典を絶対視する

教祖様がこう言っているから正しい、教典にはこのように書いてあるから正しい、などのように教祖や教典を絶対視します。なぜ教祖様はこのような発言をしたのだろう、その意味するところは何なのだろう、なぜ教典にはこのように書かれているのだろう、といったことを吟味することがありません。教祖様はこう言っている、教典にはこう書かれている、の一点張りになりがちです。

二元論に陥る

善悪や敵味方などのように、明確に分けようとします。早い話が、教祖様や教典の教えを守っているのが善で、守っていないのが悪です。中間がありません。

終末論に傾倒する

終末論は要するに世界の終わりだと考えてください(終末論のついて詳細について触れるとかなり難しい話になるので止めておこうと思います)。

この世界は自分以外にもさまざまなものがあり、複雑なものによって成り立っているのですが、そこまで思考が至らないので、自分と世界が直結してしまい、自分のあり方によって世界の在り方が変わってしまうと考えてしまいます。

マンガやアニメで言うところのセカイ系に近いでしょうか。たとえば、エヴァンゲリオンでは、シンジ君が頑張らないと世界が崩壊することになりますが、カルト宗教も似たようなところがあります。

カルト宗教の表面的な特徴

思想的な特徴がわかるとカルト宗教の表面的な特徴も理解しやすくなると思います。

積極的に布教する

個人的には積極的な布教そのものが悪いとは思っていないのですが、カルト宗教は積極的に布教活動をする傾向があります。なぜなら自分たちは善であり、また多くの人を善の側に呼びたいと考えるからです。自分たちが誰かを善の側に連れてこなければ、その人は悪になってしまいます。そこには救いたいという善意があるのでしょう。

ただ、気持ちが強すぎるのか、強引な布教に陥ることもあります。たとえば、直接的に宗教を紹介しても拒否されるのは目に見えているので、最初は楽しそうなサークル活動などの勧誘としてアプローチし、自分たちが管理する施設などに誘い、そこで「実はいいものがあって」などと言って宗教の説明を始めるなどです。

場合によって手段を選ばず、違法な方法を取ることもあります。なぜなら、自分たちは善の側にいるから、善のトップである教祖が言っているから、です。

身内で固まる

信者は善で、それ以外は悪なので、善である身内だけで固まる傾向があります。しかし、上にも書いたように、積極的に布教をするので、必ずしも引きこもるわけではありません。

外部からの情報を遮断する

外部からの情報は悪の情報であり、取り入れるべきものではないと考えられるため、外部からの情報を遮断する傾向があります。

極端な献金やお布施がある

考え方にはいろいろなパターンがあるでしょうが、悪の側にいる大切な人を救うには献金が必要であるとか、善である宗教に貢献するという意味で献金するとか、一般的な社会的財産は悪に属するから捨てるという意味で献金するなどがあると思います。いずれにせよ、二元論的な考え方が背景あるように思います。

規則が厳しい

世俗的なものを悪とみなす傾向があるため、男女交際やお金儲け(要するに仕事)などを禁じていたり、制限を加えたりしていることがあります。

罰がある

悪から善に来ることは歓迎されるので、宗教の外部に対しては優しかったりするのですが、宗教内部にいる人(つまり善にいる人)が悪に興味を持つというのはあってはならないことなので、規則を破った場合には罰を与えられることがあります。しばしば虐待などで社会問題に発展します。

まとめ

カルト宗教の特徴を挙げていくときりがないので、このあたりで終えようと思います。

ここまで書いてきて最後にこんなことを書くのもどうかと思いますが、普通の宗教とカルト宗教の区別は難しいです。普通の宗教だったのに、急に様子がおかしくなってカルト宗教になってしまったという例もあります。何がそうさせるのかはよくわからないのですが、でも、何か問題を抱えていて、余裕がなくなってくると、思考や視野が狭まっていくのかもしれません。

もしそうならば、普段は宗教と全然関係がない生活をしている人でも、急にカルト宗教にハマってしまうということもあるでしょうから、自分は関係ないと考えるのではなく、気をつける必要があるのかなと思います。